中国史

唐について調べてみた「名君 太宗」

魏晋南北朝時代の混乱に終止符を打ち、300年ぶりに中国を再統一した

初代皇帝「文帝」は制度を改めて国家の礎を築くが、2代皇帝「煬帝(ようだい)」の政策がことごとく失敗し、各地で起こる反乱をきっかけに隋は崩壊した。

その混乱に乗じて長安を陥落させ、を建国したのが「李淵(りえん)」である。618年のことであった。

皇帝の権力は弱かった?

唐

【唐の初代皇帝・李淵 wikiより】

李淵が皇帝となり、唐を建国した時点では、依然として各地に隋時代の反乱軍が多く残っていたが、それを李淵の次男・太宗(たいそう)が打ち滅ぼしていく。

太宗も父と同様に唐朝の創建者とされるのだが、それは初期の段階で長男で皇太子の建成(けんせい)を殺害、李淵を退位させて第2代皇帝となったからだった。

建国当時、唐王朝の領土は隋とあまり変わりはなく、黄河から長江周辺を中心とした一帯である。そして、太宗の治世は「貞観の治(じょうがんのち)」といわれ、中国史上もっとも国内が治まった時代と美化・賛美された。

626年に皇帝に即位した太宗は、まず三省という中央政府の最高機関を整備する。

○中書省(ちゅうしょしょう):詔勅(皇帝の命令)の立案・起草を担当。
○門下省(もんかしょう):皇帝の詔勅を審議。
○尚書省(しょうしょしょう):詔勅の施行を担当。

このように詔勅といえど、門下省の審議を通過できなければ施行することは不可能であったが、この門下省の役職は貴族が独占していたため、三省にあって最高の権力を有していた。さらに、詔勅そのものの立案を中書省が行い、貴族が独占する門下省が決定権を有していたので、皇帝の権限は独裁的なものではなかった。

律令制国家の成立

【※第2代皇帝・太宗(たいそう) wikiより】

太宗の時代において成立した律令国家体制は、後に日本にも導入されたものであり、唐の政治を語る際には欠かせないものである。

(刑法)・(行政法・民法)・により、法律による統治体制というものが完成したのだ。その優れた統治体制は朝鮮半島から日本、さらに南方のベトナムへと広がっていった。

隋の時代に制定された試験による官吏登用法である「科挙(かきょ)」は継承され、皇帝が任命する役人により、地方を分けて統治する州県制も引き続き実施されることになる。これは、秦の始皇帝が行った郡県制と同様のものだ。

唐の税制・兵制としては、隋の時代に制定された「均田制(きんでんせい)」「租庸調制(そようちょうせい)」「府兵制(ふへいせい)」が引き続き採用され、農民支配を徹底する。

均田制は、国が農民に土地を与え、租庸調制により、国民は税を納める義務を負う。そして、府兵制は現代の徴兵制に近い制度であり、これにより軍備を整えた。630年、太宗は唐の北方にある東突厥(ひがしとっけつ)、現在のモンゴル高原を制圧している。

中国初の女帝誕生

【※8世紀前半の唐と周辺国 wikiより】

649年に即位した第3代皇帝・高宗(こうそう)の時代、唐は最大領土を形成する。中央アジアにいた西突厥を打ち破ったためだ。

そして、唐王朝は支配下の異民族を羈縻政策(きびせいさく)により、各部族長に自治を与えると共に、異民族の文化・宗教を容認した。一方で都護府(とごふ)を設置し、官吏と軍隊が駐屯し、異民族の自治を監督させた。

やがて、これが中国歴代王朝における異民族支配の体制として確立される。

690年に即位した中国初の女帝・武則天(ぶそくてん)は、高宗の皇后であったが、太子を排除して自らが皇帝に即位した。国名も「(武周)」と改め、自らを聖神皇帝と称したのである。武則天は専横の象徴のように語られることが多いが、その治世には科挙官僚を積極的に登用して、従来の貴族勢力を抑圧することに成功している。

唐 王朝の斜陽

【※楊貴妃 wikiより】

712年に即位した第9代皇帝・玄宗(げんそう)。713年~741年までの治世の前半は「開元の治(かいげんのち)」と呼ばれる善政で、唐の絶頂期を迎えていた。

周辺異民族に備えて「節度使(せつどし)」という軍の指揮官を設け、唐の防備を固め、「募兵制(ぼへいせい)」により金銭で兵を徴集することになる。これには、均田農民の没落や逃亡などの問題があり、それを解決する策でもあった。

しかし、737年に寵愛していた武恵妃(ぶけいひ)が死去すると、740年、玄宗は息子の寿王の妃であった楊貴妃を奪い、溺愛するようになる。

楊貴妃もまた、玄宗に対して自分の望みをきかせるようになり、それが政治の乱れ、国内の混乱を招き、豪奢な宮廷生活が財政を圧迫していった。

制度の崩壊と唐王朝の滅亡

755年、唐の軍人である「安禄山(あんろくざん)」と、同じく「史思明(ししめい)」が反乱を起す。「安史(あんし)の乱」である。安禄山は節度使であったが、すでに玄宗が政治の運営を離れていたため、権力に近い立場にあり、史思明も安禄山と同郷の部下ということで力を合わせたのだ。

しかも、安禄山の軍が首都・長安に迫ると玄宗は楊貴妃と共に逃亡してしまい、随従した兵士たちの要求によって楊貴妃を殺害するしかなかった。

反乱はウイグルの支援を得て平定されるも、すでに玄宗には政治を行う力もなく、均田制などの諸制度は崩壊。羈縻政策(きびせいさく)までが破綻したことにより、周辺の異民族の制御は困難となる。

以降、唐王朝の国力は弱まり、次第に傾いていき、907年、唐は滅亡し五代十国時代という混乱の時代を迎えることになったのだ。

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