室町時代

太田道灌について調べてみた

江戸の町が徳川家康により整備され、やがて世界有数の巨大都市になったことは有名である。

しかし、家康が江戸に幕府を開く前から江戸城は存在していた。それを築城した人物こそ 太田道灌(おおたどうかん)である。

扇谷上杉家の重臣として

太田道灌

【※太田道灌 wikiより】

道灌は、室町幕府の武蔵守護代である扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の筆頭重臣、太田資清(おおたすけきよ)の子として永享4年(1432年)に生まれた。太田氏は、摂津源氏の流れをくむ家柄で、扇谷上杉家においては家宰(かさい)という、家長に代わり家政を取り仕切る職責にあった。

扇谷上杉家は、山内上杉家を宗家とする諸家であり、後に山内上杉家は、上杉謙信に家督を譲ることになる。

父・資清は、関東管領である上杉憲忠(うえすぎのりただ)を補佐する立場にあった。関東管領とは、室町幕府の関東における出先機関で、関東を平定する仕事である。上杉家はこの職を代々引き継いでいた。

しかし、関東を統治する鎌倉公方・足利成氏(あしかがしげうじ)に憲忠が暗殺されたことにより、28年にもおよぶ永享の乱(えいきょうのらん)へと発展してしまう。この混乱の中、道灌は家督を譲られた。

江戸城築城

足利成氏方は、古河公方(こがくぼう)を称し、下総国古河(茨城県古河市)を本拠として、上杉氏と全面対立。道灌も父と共に武蔵国(埼玉県)内に城を築いて、東方への守りとした。この戦いの前線は利根川付近となっており、千葉方面への守りを固めるために、江戸にも城を築く必要があった。

これが、初代の 江戸城 となる。

当時、千葉には古河公方側の千葉氏が、そして江戸には江戸氏が勢力を広げていたが、道灌は江戸氏を去らせて築城。道灌は、すでに品川に館を構えていたが、長禄元年(1457年)に居を移している。

道灌日記」という書物には、江戸に城を築いたのは夢のお告げがあったとされているが、道灌自身は、今も残る神社を多く造営しているため、信心深い性格だったようだ。

初代江戸城

【※江戸城下道灌濠。道灌時代の面影を残すとされている。wikiより】

江戸城に入城した道灌は、この地で兵の鍛錬を行い、怠けるものから罰金を徴収する代わりに、真面目に励むものへはお茶代としてその金を渡していた。道灌自身、教養のある武将で、幼少時から頭の回転が速かったという。

江戸においても兵学を学び、古代中国の書物である「易経」により、易学を修めた。易学とは中国古来の占いの一種であるが、当時の軍師としては必須の学問である。

また歌道にも精通しており、品川の館に歌人たちを招き、歌合せを行っていた。

当時の江戸城の詳細はあまり分かっていないが、位置としては徳川時代の本丸付近であったと推測される。本丸の他に曲輪(くるわ)がふたつ、城の高さは約30mあり、石門は25ヵ所もあったという。当時は城のすぐそばまで江戸湾が広がっており、江戸湊に接していた。

古河公方との戦い

文明5年(1473年)、山内上杉家の家宰・長尾景信が死去したことで流れが大きく変わる。景信の嫡男であった長尾景春が跡を継いだが、山内上杉家11代当主である上杉顕定(うえすぎあきさだ)はこれに反対、景信の弟・長尾忠景に家宰職を与え、長尾景春の恨みを買うことになる。

文明8年(1476年)2月、駿河(静岡)守護である今川義忠が討ち死にしたことで、家督争いが起きた。道灌は調停のために駿河に向かっていたが、その間に長尾景春は古河公方と結び挙兵してしまう。これが長尾景春の乱だが、道灌は主家を助け、景春軍と関東各地で戦うが、古河公方を後ろ盾にした景春はなかなか討ち取れずにいた。

文明10年(1478年)10月の小机城(神奈川県横浜市)の包囲を皮切りに、長尾景春の軍を相模から一掃すると快進撃が始まった。古河公方側にはすでに和議を模索する空気もあったが、千葉氏の有力武将を討ち取るなどの活躍で、文明12年(1480年)6月には景春最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を落とし、長尾景春の乱は終息する。

この戦いにおいての活躍は大きく、自らも「山内家が武(武蔵)・上(上総)の両国を支配できるのは、私の功である」と述べているほどだ。

太田道灌 暗殺

【※大田道灌首塚(伊勢原市)wikiより】

その言葉が招いたのか、道灌に反目する動きもあった。確かに39ヶ条に及ぶ活躍を書にしており、道灌自身の能力も高く評価されていた。だが、行き過ぎた才能の誇示は敵を作るものだ。

当時の主君・上杉定正(うえすぎさだまさ)も、道灌がその功績を誇って主君を軽んじていると感じ、道灌の意見を採用しないなどの反感を見せている。

一方、道灌もそれらの待遇が正当に評価されていないものだと不満を述べていたが、文明18年(1486年)、定正の相模にある館(神奈川県相模原市)に招かれたところで暗殺された。

暗殺の裏には、下克上を恐れた定正が手を下したともいわれているが、真相は明らかになっていない。享年55。

最後に

道灌暗殺後、扇谷上杉家からは多くの人材が山内上杉家へ走り、さらなるお家争いへと発展してゆく。扇谷上杉家においていかに道灌の存在が大きかったのか分かるだろう。

関東各地で戦った道灌ゆかりの地は各地にあり、皇居内にも道灌壕と名付けられた堀が残るほか、首塚がある神奈川県伊勢原市では、毎年、道灌まつりが開催されている。

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