中国史

隋について調べてみた

中国を初めて統一した秦の始皇帝。その始皇帝が倒れると、秦王朝は呆気なく滅び去り、漢王朝の時代が約400年続く。

しかし、その後は魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)という戦乱の時代が約300年続くことになる。この時代に終止符を打ち、統一王朝を打ち立てたのが「(ずい)」であった。

南北統一

隋

【※隋の初代皇帝・文帝】

隋の初代皇帝・文帝(ぶんてい)こと楊堅(ようけん)は、大興城(だいこうじょう/西安市)に都を置き、581年に皇帝に即位する。当時、中国は南北に分断しており、北では北周の外戚であった文帝が隋を建国し、南は南朝が治めていた。

北周の武帝により南北統一の道筋を引かれてはいたが、文帝はまず、北方の突厥(とっけつ)に対して秦時代から残る長城を整備して防備を固める。一方、南朝の一国である宣帝(せんてい)に対しては慎重な態度を見せていた。即位の翌年には陳に軍を送り込もうとするが、宣帝の崩御により進行は中止となり、これには使者を派遣して弔意を表したほどである。

584年、突厥が北方で動きを見せると、これを攻撃し、突厥を東西に分裂させることに成功した。北方への憂いがなくなったこと、宣帝の子が帝としての資質を欠いていたことから、588年、文帝は陳を一気に攻め滅ぼすと南北の統一を果たす。

ここに漢以降、300年ぶりの中国統一王朝が誕生した。

隋 の政策

統一を果たした隋は、優秀な人材を集めるために科挙(かきょ)制度を実施する。学科試験に基づき役人の合否を判断することで、貴族による高級官職の独占を防止した。それまでの九品官人法(きゅうひんかんじんほう)は、国への忠誠度を見極めて登用するものであったが、やがて世襲制となり、貴族だけが高級官職を占めていたのである。

他にも均田制により、貴族の大土地所有を規制するとともに、農民の性別や年齢に応じて土地の配分を行い、税の増大を図ったり、租調庸制では均田制と連携させ、労働力・布・生産物なども税として定めた。軍事面では農民を戦時にだけ徴用するのではなく、強健な成人男子を選び、都を防衛する衛士や、辺境地での防衛の任にあたらせる徴兵制、府兵制を始めている。

こうして、文帝の時代は帝国の基礎を固めるに十分な安定を見せていたのだ。

大規模土木事業

【※隋が建設した運河の一部である蘇州の京杭大運河】

そして、2代皇帝・煬帝(ようだい)の時代になると、大規模な土木工事が行われた。

604年に即位した煬帝は、父とは対照的に派手好きで、まずは南北を接続する運河の建設を行う。江南では農業が栄えていて、河北との差が明らかであったことから、黄河と揚子江を結ぶ大運河の延長工事を大々的に進めたのである。この工事そのものは文帝の時代より整備されていたが、大規模に開削を行ったのは煬帝であった。

後に京杭大運河(けいこうだいうんが)と呼ばれる、総全長2,500kmにも及ぶ大運河であり、現在まで中国の水運においては大動脈として機能している。さらには、2014年には世界遺産として登録された。

こうして、交通の面においても南北の統一が進められたが、工事の苛酷さに人々は苦しみ、実際に運河を利用したのが軍隊であったため人心は離れていった。他にも100万人規模の大規模な土木工事として、長城の改修、首都大興城の建設などがるが、こうした建設事業により国力を弱めたのが秦と同じというのは皮肉なものだ。

翻弄される煬帝

【※7世紀初めの隋と周辺国】

611年、煬帝は当時の朝鮮半島北部にあった高句麗への派兵を決める。612年には第1回遠征が113万人という規模で行われるが、これに大敗。613年には煬帝自ら遠征軍を率いて第2回で高句麗を攻めるが、これも失敗に終わった。

614年の第3回遠征では、高句麗側の疲弊もあり、髄への恭順を示したものの国家としての独立は守り抜いた。そこで煬帝は第4回の遠征を計画していたが、国内でも大きな異変が起きる。

煬帝の政策に不満を募らせた民衆が各地で反乱を起こしたのだ。発端は、第2次遠征軍の撤兵中に、隋の将軍・楊玄感(ようげんかん)が洛陽を攻撃したことであった。この反乱は鎮圧されたが、これを引き金として全土で反乱が起こるようになる。北方の突厥(とっけつ)がこの機に乗じて南下動きを見せたため、煬帝は軍を率いて戦うも、突厥に敗北してしまう。この敗戦が決定打になり、616年には反乱が最大規模となった。

隋の滅亡

【※2代皇帝・煬帝】

反乱勢力は各地で集団を形成し、群雄割拠の様相を呈するようになる。最初に反乱を起こした楊玄感の参謀・李密(りみつ)、隋の将軍・王世充(おうせいじゅう)、高句麗遠征軍から脱走して勢力を築き上げた竇建徳(とうけんとく)、そして、(りえん)などが中心となり、国内は分裂の危機を迎えた。

煬帝は反徒を殺害することで鎮圧しようとするが、それがさらに反発を招き、隋軍では対処できないレベルとなる。煬帝は行幸と称して江南の江都に移り、そこで反乱を鎮圧する計画だったが、これは北方を放棄したことと見られ、北方での反乱はさらに激しさを増す。李淵により、首都大興城は落城。そして、煬帝はすでに国政を行える能力がなくなり、臣下を殺害する暴君と化していた。618年には重臣の宇文化及(うぶんかきゅう)が謀反を起こし、遂に煬帝は殺害される。

煬帝の死を知らされた李淵は、混乱の中、太原市で挙兵し、が建国されることとなった。ここに隋は滅びたのである。

遣隋使

日本においての隋は、聖徳太子が遣隋使を派遣したことで有名だが、その歴史は中国統一からわずか29年という短さであった。名君である文帝が基礎を固め、暴君となった煬帝が幕を引いた。ちなみに煬帝の「煬」の文字は「天に逆らい民を虐げる」という意味であり、「帝」を「だい」と読むのも、皇帝としての資質に欠けるという意味を持っている。

隋の功績といえるのは「中国統一」と「大運河の整備」といっていいだろう。

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