武人だった家康
100年にも及んだ戦乱の世を終わらせた徳川家康は、その人生の大半を戦場で過ごしたと言っても過言ではない。
柳生新陰流など武術の鍛錬に余念がなかったことでも有名で、大将自ら戦うことを常に忘れなかった戦国の男でもあった。
今回は戦国の覇者・家康が愛用した甲冑について解説していく。
家康の若かりし頃の甲冑
家康は幼年の頃から織田家と今川家の人質として過ごし、今川家で元服と結婚をした。
永禄元年(1558年)2月に三河国加茂郡寺部城主・鈴木重辰が今川から離反して織田信長に通じた。家康は今川義元の命で岡崎衆を率いて鈴木重辰を攻めた。これが家康の初陣であり17才であった。
この時、若き家康は「周囲の敵城から後詰がくれば、後々問題となりかねない。先に枝葉を刈ってから根を断つべし」と言って寺部城下に放火し敵を敗走させたという。
初陣にして立派な軍令と知略を見せ、老臣らを感心させた若き家康が着ていた甲冑は「金陀美具足(きんだみぐそく)」であったという。
松平元康(徳川家康)の大高城・兵糧入れの初陣に着用したといわれる「金陀美具足」と「白檀塗具足」#麒麟がくる pic.twitter.com/y69CoK5uzs
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この甲冑は金箔押しや金漆塗りで仕上げられた甲冑で、絢爛豪華に見えるが実は決して贅を尽くした物ではなく、素材などは一般の武士と同等の物を用いたと言われている。
若き大将ここにありと人目を引く物ではあったが、実戦での使用に耐えられる仕立ての甲冑だったという。
この当時の家康は松平元康の名で今川家の人質の身分だった。その若き家康の運命を変える任務が永禄3年(1560年)桶狭間の戦いにまつわる「大高城兵糧運び入れ」であった。
義元の命で、決死の覚悟を持って織田軍が包囲する大高城へ兵糧を運び入れたのだ。
その後、すぐに桶狭間の戦いで義元が織田軍に討たれ、若き家康の人質生活も終わり地元の岡崎に戻ることができた。
その時に愛用した甲冑が「金陀美具足」であり、甲冑の仏胴(ほとけどう・継ぎ目のない胴)や臑当(すねあて)には無数の細かい傷があったという。
若くて血気盛んな家康の姿に思いを馳せることができる甲冑と言える。
現在は、久能山東照宮が歴代将軍の甲冑と共に保管している。
家康が関ヶ原の戦いで着ていた甲冑
家康を天下人へと押し上げた関ヶ原の戦いで着ていた甲冑が「伊予札黒糸威胴丸具足(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく)」である。
徳川家康所用伊予札黒糸威胴丸具足。 pic.twitter.com/0F6XeftuSK
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兜にシダの葉状の前立を施していたことから「歯朶具足(しだぐそく)」とも呼ばれていた。
特徴的なのは兜の形で、鉄板を打ち出した形が「大黒天」の頭巾のような形をしていることから「大黒頭巾形兜(だいこくずきんなりかぶと)」と呼ばれている。
関ヶ原の戦いを直前に控えた時期に、家康の夢の中に出てきた「大黒天」を再現させた物であるという。
大黒天は現在のイメージでは財福の神というイメージがあるが、その当時は仏教の守護神で、軍神や戦闘神として毘沙門天と同じ武神として知られていた。
さすがの家康も「天下分け目の戦い」を前に、少しでも縁起を担ぎたい気持ちだったことがわかる。
この甲冑は家康にとって吉兆の鎧と位置付けられ、豊臣家を滅亡させた「大坂の陣」でも家康の傍らに置かれていたという。
家康はこの鎧にことのほか愛着があったようで、前述のように「関ヶ原の戦い」と「大坂の陣」に携行したほか、同様の物を別誂えして奈良県の神社に奉納していたという。
歯朶の前立に関しても単なるシダというより、注連縄や正月飾りなどに使われる「裏白(ウラジロ)」と考えられ、神聖な行事に用いられるほかに葉の裏が白いことから「二心がない」という真心を表す、まさに武将にとっては縁起のよい植物であったのだ。
鎧本体の作りは全体的に渋く「伊予札(いよざね)」を黒糸で綴り合わせた胴丸タイプの鎧という意味で、伊予(現在の愛媛県)の鎧職人が考案した「小札(こざね)」を糸で綴るための穴が部材の端の方にあり、全体の小札数を減らせるメリットがあった。
胴丸は元々軽装歩兵の防具であったが、上級武士も用いるようになり右脇が開くようになっていて、そこから装着することが一般的であった。
この甲冑は家康を象徴する物として、四代将軍・家綱以降は正月行事の「具足開き」の折にこの鎧のレプリカを飾って初代・家康の偉業を偲んだという。
現在は久能山東照宮が歴代将軍の甲冑と共に保管している。
将たる者の役割
家康の身長は159cmで体重は70kg、体形は肩幅が広くずんぐりむっくりの肥満体であったという。
しかしこれは後年の時の体格で、若い頃はもう少し痩せていたとされている。
それは前述の「金陀美具足」と「伊予札黒糸威胴丸具足」の胴回りの太さがかなり違っていることで分かる。
戦に明け暮れる日々を送った家康は、今回紹介した2つの甲冑以外にも様々な個性的な甲冑を残している。
おわりに
信長は西洋をイメージにした覇王タイプを甲冑を愛用。秀吉はいかにも派手好きな金ピカ兜をかぶった甲冑を愛用。
家康の甲冑は二人に比べると地味な印象があるが、若い頃は一見豪華な金箔や金漆を用いた目立った物を愛用し、後年は軍神・戦闘神をモチーフにするなど「将たる者」として常に拘りと愛着を持っていたと言えよう。
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