安土桃山時代

織田信長に仕えた黒人・弥助は武士か否か? その生涯をたどる

織田信長に仕えた黒人・弥助(やすけ)。

天正9年(1581年)2月23日に信長と謁見してから、翌天正10年(1582年)6月2日に起こった本能寺の変で信長が横死を遂げるまで、1年余にわたって奉公しました。

そんな弥助は、数百年の歳月を越えて様々なメディア作品に取り上げられ、時に話題を呼んでいます。

弥助は武士なのか?それとも武士ではないのか?

正直どっちでもいいと思いますが、人々の興味は尽きないようで、現代でも議論が続いているようです。

皆さんは、弥助が武士だと思いますか?それとも召使い(非武士)だと思いますか?

信長に謁見、弥助の名を賜る

弥助

画像:宣教師に仕える黒人従者(弥助とは限らない) public domain

弥助の生年について、詳しい記録は残っていません。

しかし『信長公記』によると、弥助が信長と謁見した天正9年(1581年)時点で、26~27歳と見られています。
それに基づくと、弥助は天文24年(1555年。弘治元年)から、弘治2年(1556年)ごろに生まれたと考えられるでしょう。

出身地はポルトガル領東アフリカ、現代のモザンビークと言う説があります。

そして、イエズス会の宣教師ヴァリニャーノに連れられ、信長と謁見したのでした。

弥助の全身は墨を塗ったように黒々としており、身の丈は六尺二分(約182.4センチ)。

はじめ信長は、墨を塗っているのか汚れているのかと思い、身体を洗わせたのだとか。

その後、十人力の剛力を誇る弥助を信長はたいそう気に入り、ヴァリニャーノに譲ってくれるよう頼みます。
かくして弥助は信長に召し抱えられました。この時に信長が「弥助」と名づけたという逸話もあります。(元から弥助と呼ばれていた説も)

ちなみに、現代のモザンビークには「ヤスフェ」という男性名が多いらしく、もしかしたらヤスフェという名を聞いた信長は、弥助と和風にアレンジしたのかも知れませんね。

本能寺の変で奮闘

画像 : 織田信長 public domain

信長は、弥助をたいそう気に入ったようで、どこへ行くにも連れて歩いたとされています。
道具持ちとして付き従う弥助を一目見ようと人々が群がり、時には乱闘騒ぎに発展することもあったとか。

黒人の物珍しさも相まって、大変な人気ぶりですね。

天正10年(1582年)2~3月の甲州征伐にも従軍し、人々の注目を集めました。

弥助は信長から鞘巻の腰刀や扶持(俸給)を拝領し、その寵愛ぶりに「やがては城主か領主になるのでは?」と噂されるほどでした。

しかし、同年6月2日に明智光秀が謀叛、いわゆる本能寺の変で信長は横死してしまいました。

画像 : 錦絵 本能寺焼討之図 public domain

弥助は信長の嫡男・織田信忠を護るために妙覚寺へ走り、明智勢を相手に武勇を奮います。

しかし、武運つたなく信忠も自害、弥助は明智勢に降伏しました。

このまま処刑されると思いきや、光秀は「黒人は獣と同じであり、日本人ではないから殺すには及ばない」と釈放。宣教師らに引き渡されます。

弥助がその後どうなったのか、確かな記録は残っていません。

一説には、沖田畷(おきたなわて)の合戦(天正12年・1584年)で大砲を使う黒人がおり、それが弥助ではないかという説もあるようです。

果たして弥助は、武士なのか?

弥助

狩野内膳「南蛮屏風」より。宣教師に仕える黒人従者たち(画像:Wikipedia Public domain)

ここまで、弥助の生涯を駆け足で紹介してきました。

果たして弥助は武士なのか否かは、現状においては

武士であるという確たる証拠がない現時点において、武士とは言えない

と仮定せざるを得ません。

確かに弥助は、扶持を与えられて刀を差し、甲州征伐に従軍し、本能寺の変で武勇を奮ったりと、武士らしい面も見られました。

しかし、扱いとして判明しているのは、道具持ち(中間、小者)であり、武士としての身分は持っていなさそうです。

明智光秀に釈放されたのも、「武士(正規の戦闘員)ではない」と見なされたことが、大きいのではないでしょうか。

そもそも武士とは何なのか、その定義が確立していない当時にあって、厳格に武士であるなしを問うのは難しいでしょう。

果たして弥助が武士として扱われていたのかどうか、今後の究明が俟たれますね。

弥助の基本データ

本名:不詳(ヤスフェ?)
別名:弥介(表記ゆれ)
生年:不詳/天文24年(1555年。弘治元年)~弘治2年(1556年)ごろ生まれ?
没年:不詳
出身:ポルトガル領東アフリカ(現:モザンビーク)
人種:黒人(Negroid)
身分:奴隷?⇒織田家臣(武士?召使い?)
身体:墨のように黒い身体、身長は六尺二分(約182.4センチ)
武力:十人力の剛力、本能寺の変で奮戦
戦歴:甲州征伐、本能寺の変など
主君:アレッサンドロ・ヴァリニャーノ⇒織田信長⇒?

終わりに

今回は織田信長に仕えた黒人・弥助の生涯をたどり、武士か否かを考察してみました。

最近では一部で「日本の黒人奴隷を解放したヒーロー」などと言われているようですが、当時の日本に黒人奴隷が普及していた記録はなく、むしろ、日本人が奴隷として各国に売られていたとされています。

プロパガンダに惑わされず、純粋に歴史を学び、その魅力を楽しみたいものです。

※参考文献:
岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣出版、1999年9月
柳谷武夫 編『イエズス会日本年報〈上〉』雄松堂書店 、1969年1月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)

 

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【正気か狂気か】 コロセウムで剣闘士となったローマ皇帝 コンモド…
  2. 鳥居元忠・三河武士の鑑と称された武将
  3. 【親友・斎藤利三の遺骸を刑場から強奪】 海北友松の生涯 〜『雲龍…
  4. 家康の黒歴史・徳川家のタブー「信康切腹事件と築山殿殺害事件」の真…
  5. 石田三成の評価はなぜ二分するのか?【天才か凡人か】
  6. 戦国大名の家紋について調べてみた
  7. 現地取材でリアルに描く『真田信繁戦記』 第4回・第二次上田合戦編…
  8. 実は築城の名手だった明智光秀 【坂本城、亀山城、福知山城】

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【IQ180の天才少女】母に高速道路に捨てられ、父からは売春強要『シーラという子』

男児を木に縛り、火をつけた少女1979年6月、カリフォルニア州メアリスヴィルでシーラ・リ…

トランスジェンダー(MTF)の歴史について調べてみた

LGBTとはセクシュアルマイノリティの頭文字をとった用語だ。レズビアン、ゲイ、バイセクシュア…

【日本三悪人の筆頭】 天皇の座を狙った悪僧・道鏡とは 「女性天皇をたぶらかす」

日本を代表する三つのことを「日本三〇〇」と呼ぶことは多い。悪人のカテゴリーにも「日本三悪人」…

誕生日石&花【01月01日~10日】

他の日はこちらから 誕生日石&花【365日】【1月1日】物腰やわらかく温厚。社交的で誠実な、…

うつ病に『がんばれ!』はNGじゃない?!うつの人との正しい接し方

どんな病気でもそうだが、経験しなければその辛さはわからない。仮に風邪ならば、多くの人はその辛さは…

アーカイブ

PAGE TOP