多くの上級武家で弟は排除された

画像:豊臣秀長 public domain
2026年のNHK大河ドラマは、2年ぶりに戦国時代をテーマとした『豊臣兄弟!』に決定しました。
『豊臣兄弟!』の「兄」はもちろん、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉(演:池松壮亮)ですが、「弟」はその異母弟・豊臣秀長(演:仲野太賀)。
そしてなんと、主人公は兄の秀吉ではなく、弟の秀長なのです。これは少々意外な展開ですね。
NHKの公式ホームページによると、豊臣秀長のプロフィールにはこうあります。
「天下人・豊臣秀吉の弟。登場時の名は小一郎(こいちろう)。兄の天下取りを一途に支え続けた『天下一の補佐役』といわれている。」
なるほど、NHKはそうきましたか。戦国武将の「弟」を主役に据えたのですね。
しかも、兄・秀吉の天下統一事業を誠実に支え続けた「天下一の補佐役」です。
こんなふうに書くと、「それが何なんだ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
ですが、大河ドラマに登場した多くの人物たちは、兄弟で争い、多くの場合、兄が弟を殺しているのです。
代表的な例を挙げましょう。
鎌倉・室町時代を描いた作品では、『太平記』で足利尊氏が弟・直義を毒殺。
『鎌倉殿の13人』では、源頼朝が弟・義経を討伐しました。
戦国時代の作品では、『麒麟がくる』で織田信長が弟・信行(信勝)を毒殺。
江戸時代を舞台にした作品では、『春日局』『葵 徳川三代』などで、徳川家光が弟・忠長を自害に追い込んでいます。
さらに、伊達政宗は弟・小次郎を、大友宗麟は塩市丸を、毛利元就は相合元綱をそれぞれ殺害しているのです。

画像:神護寺蔵・伝源頼朝公肖像 public domain
つまり、将軍や大名など上級武家の間では、特に有能な兄にとって、弟は排除すべき脅威とみなされることが少なくなかったのです。
これは歴史上、決して珍しいことではありません。
だからこそ、「兄を一途に支え続けた弟」という存在は、上級武家のなかでは極めて稀有な存在です。
その例は、わずかに二つしか知られていません。
ひとつは、豊臣秀吉と秀長。
もうひとつは武田信玄と信繁ですが、信玄に関しては、信繁亡き後は信廉が当てはまるかもしれません。

画像:武田左馬之介信繁 甲陽二十四将之一個 (歌川国芳作)public domain
このような兄弟関係は、本当に特異なものです。
なぜなら、彼らは人間として、一対一の深い信頼関係で結ばれていたからです。
つまり、お互いを心の底から信頼し合っていたわけです。
それでは、なぜ上級武家社会では、有能な兄ほど弟を抹殺する傾向にあったのか。
これについて、次に説明していきましょう。
弟は兄の地位を脅かす存在だった

画像 : 織田信長 public domain
封建社会、すなわち武家の社会は、家父長制によって成り立っていました。
織田弾正忠家を例に説明すると、家の頂点に立つのは織田信長ただ一人であり、跡継ぎの信忠を除けば、他の者は基本的に必要とされません。
つまり、武家社会においてトップは常に一人だけであり、権力がその人物に集中します。その結果、命令は上から下へと迅速に伝達されるトップダウン型の管理体制が可能となるのです。
このような管理体制が確立されている武家は、トップとそれを支える家臣たちとの連携が上手くいっているので、合戦では強さを発揮し、領内の経済政策なども一環性があり、家が栄えるのは当然のことといえるでしょう。
ですが、もし家のトップである兄と同じくらい有能な弟がいたら、どうなるでしょうか。
このような場合、しばしば兄と弟の間に、家臣を巻き込んだ権力争いが生じてしまいます。
織田弾正忠家を例にとると、嫡子である信長には、すぐ下の弟・信行(信勝)がいました。
二人は父・信秀と、その正室・土田御前の子であり、文字通り血を分けた実の兄弟でした。
信秀の死後、この二人の間で織田弾正忠家の家督をめぐる権力闘争が激化します。
尾張の統一が最優先であった信長にとって、信行は弟であるがゆえに敵対勢力となってしまったのです。
結局、この争いは信長による信行の謀殺という形で幕を閉じますが、兄弟で争っていたその期間は、合理主義者である信長でなくても“無駄な時”であったことは間違いないでしょう。
このように、上級武家においては、弟は兄にとって、自らの地位を脅かす存在になりうるのです。
そして、もしトップが理不尽なほど横暴であったり暴君であったりした場合、家を支える家臣たちからすれば、弟がいればその人物を立てて、兄を排除することを考えるでしょう。
その方が、自分たちが仕える家の繁栄に繋がり、それが彼らの利益にもなるからです。
権力者の本質

画像 : 豊臣秀吉坐像(狩野随川作)public domain
これが、上級武家において弟が殺されることが多かった理由です。
ただし、肉親同士の争いが多かった武家社会においても、一つ加えておきたいのは、「弟殺し」に比べて「親殺し」はきわめて少なかったという点です。
これには、武家社会が家父長制を基盤とし、その思想的背景に儒教があったことが大きく関係しているでしょう。
儒教には「孝(こう)」という、子が親を敬い支えるべきだとする正義の概念があります。
この考え方に基づけば、たとえ親が暴君であっても、父親を殺すことには強い心理的抵抗があったのだと考えられます。
さて、話を冒頭の『豊臣兄弟!』に戻しましょう。
秀吉は、異母弟である秀長を心から信頼し、「内々の儀は宗易(千利休)、外様のことは宰相(秀長)存じ候」とまで言われるように、秀長は豊臣政権を支える重鎮となっていきます。

画像:秀長の居城・大和郡山城 wiki.c
しかし、“人たらし”と称された秀吉でさえ、これほどの信頼を寄せたのは秀長ただ一人でした。
このことは、上級武家における弟殺しの背景を考えるうえで、非常に示唆的です。
秀吉が天下統一を果たした後、自らを秀吉の弟だと称する若者が、立派な身なりの武士たちを引き連れて大坂城に現れました。
秀吉が母・大政所にその若者について尋ねると、彼女はなんともばつの悪そうな顔をします。
その様子を見た秀吉は、なんのためらいもなく、その若者と従者たちを一人残らず斬首してしまいました。
この事件をきっかけに、秀吉は甘言を用いて、自らの兄弟を探し始めます。
そして、尾張に血のつながった姉妹がいることを知ると、気乗りしない彼女たちを無理やり大坂に呼び寄せ、これも斬首したとされています。
見つかったのは女子でしたが、秀吉の本心としては、運よく男子(兄でも弟でも)が見つかれば儲けもの、とでも思っていたのでしょう。
このような話は、しばしば秀吉の残虐性を物語るエピソードとして語られますが、実のところ、これこそが権力者の本質でもあるのです。
秀吉が殺した若者は、たとえ本物の弟だったとしても正体の知れない存在であり、いつ自分に牙をむくか分からない危険人物とみなされたのです。

画像 : (月岡芳年『月百姿』)高野山の豊臣秀次 public domain
関白・秀次の件も同様でしょう。
秀頼が生まれる前、秀次は秀吉にとって大切な後継者でした。
しかし、その存在が将来的に秀頼を脅かす可能性が出てきた途端、一族はもとより家臣たちに至るまで皆殺しにしてしまいました。
こうした事情を念頭に置いて『豊臣兄弟!』をご覧いただければ、また違った視点から物語を味わえるのではないでしょうか。
参考 :
堺屋太一著『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』PHP文庫
本郷和人著『戦国史のミカタ』祥伝社新書
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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