豊臣兄弟!

蜂須賀小六は本当に「野盗の頭目」だったのか?秀吉を支えた川並衆とは【豊臣兄弟!】

画像:蜂須賀小六 public domain

矢作橋の少年と野盗の頭目

秀吉の出世物語には、このような場面があります。

まだ日吉丸と名乗っていた少年・秀吉が、三河の矢作橋で夜を明かしていると、橋の上で休んでいた野盗の頭目・蜂須賀小六(はちすかころく)の一行と出会う。

少年は寝たふりをしたまま小六の足元に身を横たえ、その足を枕にするが、咎められても少しも動じなかった。

その度胸に好感を抱いた小六は、秀吉を仲間に迎え、以後二人は天下取りの道を共に歩んでいく。

小説やドラマでも繰り返し描かれ、小六の名はこの場面とともに認知されてきました。

ところが矢作橋の出会いは史実ではなく、江戸時代に刊行された『絵本太閤記』が広めた創作であり、同時代の史料には二人の出会いを裏付ける記録が存在しません。

そしてもう一つの根深い問題として「野盗の頭目」という小六のイメージが、実像から大きくかけ離れている点があります。

私たちが「蜂須賀小六」に抱くイメージは、史実ではなく物語によって形作られたものですが、実際はどのような人物像が埋もれているのでしょうか。

『豊臣兄弟!』には、秀吉の天下取りを支えた多くの人物が描かれています。秀吉がまだ信長の一家臣だった時代から、小六も共に歩んだ最古参の協力者でした。

しかし後世の物語があまりに印象的だったために、その実像はほとんど知られなくなってしまいました。

画像:月岡芳年 『美談武者八景、矢矧の落雁』。矢矧橋における蜂須賀小六。日吉丸(少年期の豊臣秀吉)の出会いが描かれている public domain

「川並衆」という存在

蜂須賀小六正勝は、尾張国の蜂須賀村(現在の愛知県あま市付近)を拠点とした土豪です。

後世の軍記物や伝承では、小六は「川並衆」と呼ばれる集団の頭領格として語られています。川並衆とは、木曽川・長良川・揖斐川流域に勢力を持ち、渡河や水運に関わった土豪層を指す呼称です。

川並衆の実態を理解するには、戦国時代における川の意味を考える必要があります。

戦国時代における川とは、物資を運ぶ幹線であり、敵の侵攻を阻む防衛線であり、治水事業を通じて周辺の民を束ねる政治基盤でもありました。
川を制する者は、物流と軍事の両面で戦略的な要衝を押さえていることになります。

小六が率いた川並衆は、この河川を掌握する専門家集団でした。

船の操縦、筏の組み立て、堤防の構築、渡河地点の選定など、いずれも軍事行動に不可欠な技術であり、大名たちにとって川並衆の協力を得られるかどうかは、作戦の成否に直結する問題だったのです。

信長のもとで頭角を現し始めた秀吉にとって、小六との連携は大きな意味を持っていました。

秀吉が尾張・美濃の戦いで実績を積み上げる過程において、川並衆のような河川勢力との連携があったとする見方もあります。

秀吉の出世を象徴する有名なエピソードとして「墨俣一夜城」があります。

画像 : 墨俣城跡に建つ歴史資料館 Monami CC BY-SA 3.0

永禄9年(1566年)、美濃攻略の拠点として墨俣に砦を一夜で築いたとされる逸話ですが、『太閤記』による脚色が大きく、史実としては疑問視されています。

それでも短期間での築城に近いことが行われたとすれば、それを可能にしたのは大量の木材を筏で運び、河川沿いの地形を熟知した川並衆の貢献があったはずです。
墨俣は長良川のほとりに位置しており、まさに川並衆の得意領域でした。

つまり小六は「野盗の頭目」どころか、秀吉の軍事行動を物流と土木の専門技術で支えた、実務の協力者だったのです。

画像:落合芳幾「太平記英勇傳 八菅與六正勝(蜂須賀小六正勝)」野盗感を感じさせる風貌で描かれている public domain

「野盗」はいかにして作られたか

それでは、なぜ小六は「野盗」にされてしまったのでしょうか。その原因は、江戸時代に量産された秀吉の伝記文学にあります。

秀吉の立身出世は、江戸時代の庶民にとって最も人気のある物語の一つでした。

百姓の子が天下人にまで上り詰める筋書きは、身分制度のもとで暮らす人々にとって痛快な夢物語として受け入れられたのです。

物語を面白くするには、主人公の出発点は低ければ低いほどよい。
そして最初に手を結ぶ仲間は、正規の武士よりも荒くれ者である方が絵になります。

『絵本太閤記』をはじめとする江戸期の出版物は、小六を「尾張にいた野盗の頭目」として描き、秀吉との出会いを劇的に演出しました。

「川並衆」という河川土豪の実態は物語に組み込みにくく、「川の利権を握る地方豪族」よりも「野盗の親分」の方が、読者の心を掴むキャラクターだったのでしょう。

こうして小六の実像は物語の陰に隠れ、「野盗の頭目」というイメージだけが一人歩きしていきました。

この設定は歌舞伎や浄瑠璃でも繰り返し使われ、やがて通説として定着していったのです。

大名家が背負った虚像

画像 : 大正2年(1913年)3月29日に除幕した徳島城趾公園にあった蜂須賀正勝の銅像 public domain

「野盗」のイメージは、創作の世界にとどまりませんでした。

小六の子孫である蜂須賀家は、小六の功績により阿波国(現在の徳島県)を与えられ、江戸時代を通じて徳島藩主を務めた大名家です。

国持大名として幕末まで存続しましたが、この家が長年悩まされたのが、先祖に貼られた「野盗」の烙印でした。

歌舞伎や浄瑠璃で蜂須賀小六が「野盗の頭目」として描かれるようになると、蜂須賀家にとっては看過できない家祖像として受け止められました。

大名家にとって家祖の名誉は家格に直結する問題であり、「先祖が野盗だった」という世間の認識は、見過ごせるものではなかったはずです。

ただ、一度広まった物語のイメージを覆すことは容易ではありませんでした。
蜂須賀家は明治時代に入ってからも正史の編纂に力を注ぎ、小六が「野盗」ではなく尾張の土豪であったことを公式に示そうとしたと伝わっています。

歴史上の人物は本人の行動だけでなく、後世がどのような物語を必要としたかによって姿を変えます。その虚像は数百年にわたって定着し、子孫の大名家さえも苦しめることになりました。

通説として知られる歴史には、誰かの意図が織り込まれていることがある。

小六の「野盗」伝説は、そのことを静かに伝えてくれる歴史の教訓かもしれません。

参考文献
戸部新十郎『蜂須賀小六(一)草賊の章』光文社文庫、1987年
浜野卓也『蜂須賀小六 秀吉の天下取りを支えた男』PHP研究所、1996年
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

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