
画像:ロシアのバルチック軍艦が漁船に砲撃する様子を描いた英国の絵葉書 public domain
20世紀の幕開け、日本は急速な近代化を進めていたとはいえ、欧米諸国から見ればまだ新興国家にすぎませんでした。
そんな日本が挑んだのが、大国ロシアとの戦いです。
国の命運を懸けた日露戦争は、当時の世界から「日本に勝ち目はない」と見られていました。
欧米の軍事評論家や新聞の多くが、開戦当初はロシアの圧倒的勝利を予想していたのです。
日露戦争の勝敗を決めたのは、戦場だけではなく外務省の執務室も大きな力を発揮しました。
小村寿太郎(こむら じゅたろう)と、林董(はやし ただす)が仕掛けた緻密な外交戦略は、やがてロシア艦隊を追い詰め、日本海海戦の勝利へとつながる大きな要因となります。
開戦時、ロシア海軍の総戦力は日本の約3倍でした。
陸軍は極東方面で日本が上回っていたものの、世界の軍事専門家は日本の勝利を疑問視していました。
それでは、なぜ日本は勝てたのでしょうか。
その答えの一つは1904年10月、北海のドッガーバンクで起きたある「事故」にありました。
小村寿太郎が描いた戦略 〜日英同盟という「保険」

画像:日英同盟を主導した小村寿太郎 public domain
1902年1月、ロンドンで日英同盟が調印されました。
前年に外務大臣となった小村寿太郎(こむら じゅたろう)が描いた戦略は「ロシアに勝つ」ことではなく「ロシアを孤立させる」ことでした。
世界最大の海軍力を持っていた当時のイギリスは、極東におけるロシアの南下を警戒していました。
対するロシアはフランスと同盟を結び、ヨーロッパでの安全を確保しています。
このとき、小村は冷徹に計算しました。
日英同盟が成立すれば、西と東の両方でロシアは脅威に直面します。
ヨーロッパではイギリスと対峙し、極東では日本と戦うため、戦力を二つに分けるしかありません。
ロシアに二正面作戦を強いることで、極東への戦力投入を制限すること。
戦争が始まる前に日本が勝てる条件を作り出すことが、小村の外交戦略だったのです。
さらにイギリスとの関係強化は、世界最高水準の諜報網と外交ネットワークへのアクセスを意味していました。
この恩恵が、間接的に威力を発揮することになります。
1904年10月21日深夜 〜北海で起きた悲劇

画像:ドッガーバンク事件発生時、バルチック艦隊を指揮していたジノヴィ・ロジェストヴェンスキー提督 public domain
1904年10月21日深夜、北海のドッガーバンク付近は視界不良でした。
ロシアのバルチック艦隊が極東に向かう途中、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督率いる大艦隊はすでに神経質になっていました。
日英同盟のせいで、日本海軍がどこで待ち伏せしているか分からなかったからです。
午後8時45分、先行していた工作船から水雷艇に追跡されているとの緊急通信が入ります。
艦隊は、一気に緊張しました。
22日午前0時過ぎ、突然戦闘配置の号令が響きます。
視界不良の中に現れた複数の船影を日本の水雷艇と誤認したバルチック艦隊は、やみくもに砲撃を開始。
ところが砲撃を受けたのは、ハル港から出漁していたイギリスの漁船団でした。
トロール船が沈没し、船長と乗員が死亡。他の船でも複数名が負傷する惨事となります。
ロジェストヴェンスキー提督が事態を把握したときには、すでに手遅れでした。
記録によれば提督は自らの判断ミスを激しく悔いたとされますが、失われた命は戻りません。
しかも事件が起きたのは10月21日、ナポレオンに勝利したトラファルガー海戦の記念日でした。
イギリス国民にとって最も神聖な日に無実の漁民が殺害されたことで、世論の怒りは頂点に達します。
林董の情報戦 〜24時間で情勢を変えた外交術とは?

画像:当時、駐英大使だった林董 public domain
事件の報が届いたとき、駐英公使の林董(はやし ただす)は、即座に動きました。
事件が発生した当日中に「日本はこの件に全く関与していない」との公式声明を発表します。
ロシア側の「日本水雷艇と誤認した」という弁明を逆手に取り、日本の潔白を強調したのです。
また同時に、東京では尾崎行雄市長が被害者の葬儀に弔電を送り、イギリス国民の心情に寄り添う姿勢を鮮明にします。
林董と小村寿太郎の情報戦略は見事に成功。
イギリス世論は「野蛮なロシア」対「文明的な日本」という構図で事件を捉えるようになり、連日にわたって新聞はバルチック艦隊を「海賊」「狂犬艦隊」と糾弾します。
イギリスのエドワード七世国王も「最も卑怯な暴行事件」と怒りを表明し、トラファルガー広場ではロシアを批判するデモが続きました。
緻密な情報戦を展開した日本外務省は、イギリス国民の感情を完全に日本側へ引きつけたのです。
こうした外交的な成功が、のちに日本の軍事的優位へとつながっていきます。
無煙炭の供給停止 〜日本外交が生みだした軍事的優位
イギリス世論の激高は、バルチック艦隊に致命的なダメージをもたらしました。
もっとも深刻だったのは、無煙炭の供給停止です。

画像 : 無煙炭 public domain
無煙炭とは、燃焼時に煙をほとんど出さない高品質な石炭で、当時の軍艦が使用する主要な燃料でした。
事件の影響を受けてイギリス本土はもちろん、世界各地のイギリス植民地が、バルチック艦隊への石炭供給を拒否・制限したのです。
無煙炭が手に入らなくなると、艦隊の航行速度は低下してしまいます。
代替燃料として使った低品質石炭では本来の性能を発揮できず、日本海海戦時、バルチック艦隊の平均速度は2〜3ノット(時速3キロから6キロ)低下していたとされます。
さらに港湾が利用できなかったことも致命的でした。
定期的な入港ができないため、船底には貝類や海草が大量に付着し、航行性能がさらに悪化します。乗組員の疲労も蓄積し、戦闘能力は確実に低下していきました。
食料や水分の補給も困難になり、長期航海で栄養状態が悪化し、病気による離脱者が続出したのです。
こうした背景から日本海海戦が始まる前に、戦いの帰趨は決まっていました。
バルチック艦隊を弱体化させた日本は、すでに有利な立場にあったのです。
そして東郷平八郎の「丁字戦法」はまさに決定打でした。

画像 : 青色の艦隊が丁字戦法で赤色の艦隊を攻撃する図式 Stephan Brunker CC BY-SA 3.0
燃料不足と船底汚損で動きが鈍くなったバルチック艦隊に対し、万全な状態でむかえた日本海軍が圧倒的な勝利を収めたのです。
外交力が勝敗を決めたもう一つの戦場
ドッガーバンク事件は、外交の力がいかに国家の命運を左右するかを示しています。
偶発的に発生した誤射事件を、外務省が外交的勝利へと転化させたのです。
小村寿太郎の長期的な戦略、林董の機敏な情報戦、そして国際世論を味方につけた外交術など、軍人たちが血を流す前に外交官たちが勝利へのプロセスを着実に築いていました。
現在に至っても、外務省の功績はあまり語られていません。
軍部や国民感情への配慮もあったでしょうが、別の理由も考えられます。
外交・諜報の成功を公にすれば、協力国が警戒して将来の情報提供を躊躇する可能性があったからです。
イギリスからの間接的な協力という「見えない資産」を守るため、表向きは「軍事的勝利」として処理する必要があったと考えられます。
外交における真の成功とは、語られないことにこそ価値がある。
小村寿太郎と林董は、そのことを誰よりも理解していたのでしょう。
参考 :
大江志乃夫(1999)『バルチック艦隊: 日本海海戦までの航跡』中央公論新社
ノビコフ・プリボイ(2009)『ツシマ(上):バルチック艦隊遠征』(上脇進、大江志乃夫 訳)原書房
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部























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