激動の明治時代、美貌と気風のよさで知られ、芸妓として非常に高い人気を得ていた女性がいました。
女性の名は「花井お梅」。
華やかさの裏で、感情の振れ幅が大きく、時に激しい気性を見せることがあったとも伝えられています。
のちに、そうしたヒステリックな一面が、思いもよらぬ事件を招くことになりました。
ここでは、当時から語り継がれてきた複数の説をもとに、その経緯をたどってみたいと思います。
「秀吉」のように天下を取りたかった!?

画像:花井お梅 public domain
お梅は、江戸末期の元治元年(1863)に生まれました。
父親は佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の下級武士である花井専之助で、本名は「ムメ」とされています。
明治に移る頃、花井家は東京へ移り住みましたが、家計は苦しく、お梅は明治5年(1872)頃、9歳で日本橋の商人(食堂の経営者とも)岡田家へ養女に出されました。
けれども家業の手伝いに馴染めなかったお梅は柳橋で芸妓となり、「小秀」の名で座敷に出るようになります。
そして18歳の頃、新橋に移って「秀吉」と名乗ったのです。
なんでも「豊臣秀吉のように大物になってやる!」という意気込みから名付けたとか。
当時は江戸から明治へと社会が大きく変わり、人々がそれぞれの道を模索しはじめた時代でもありました。
そんな空気の中で、お梅も何かしらの大きな夢を抱いていたのかもしれません。

画像:大正時代の芸者遊び 淡交社「写真集成・京都百年パノラマ館」public domain
勝ち気でキレやすくヒステリック
明治15年(1882)、19歳になったお梅は、柳橋芸妓の中でも特に人気が高い存在でした。
美貌なうえに男まさりの姉御肌な性格で、座敷でも客を惹きつける魅力があったようです。
お座敷では、美人でも大人しく客の言葉に頷いてるだけでは「座持ち」はしません。きっと、打てば響くようにポンポンと会話が弾むような女性だったのでしょう。
そんなお梅には、第百三十三国立銀行の頭取がパトロンに付きました。しかしお梅は気にすることもなく、ほかの男性とも遊びを楽しんでいたようです。
ところがお梅にも大きな欠点がありました。勝ち気でキレやすく、ヒステリックな性格だったのです。
そうした一面を目撃した人物の一人が、当時日本に招かれていたドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツでした。

画像 : ドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツ public domain
夫人であるベルツ花子の著書『欧洲大戦当時の独逸』によれば、ベルツは座敷でお梅を見た際に「あのお梅という女は、事と次第によっては人殺しもしかねない質だ」と語っていたといいます。
同じ席上に居合わせただけの外国人のベルツが、人を刺しかねないほどのただならぬ気配を感じ取るほど、どこか危うさを持っていた人物だったのでしょう。
のちに事件が起きた際、この話が広まり「ベルツは人相を見ることができる」などと噂されたそうです。

画像 : お梅のことが記されている。ベルツ花子 著『欧洲大戦当時の独逸』,審美書院,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション
家族とも番頭とも関係がうまくいかなかったお梅
明治20年(1887)、24歳頃のお梅は、パトロンであった銀行頭取の資金援助を受け、浜町に待合茶屋「酔月楼」(資料によっては「水月」)を開くことになりました。
当時は24歳というと「とうが立った」といわれるお年頃でしたから、芸妓を卒業して落ち着きたかったのかもしれません。
直接お梅に資金を渡すと関係が世間に知られてしまうため、金銭は父の花井専之助に渡され、営業鑑札の名義も父としたとされています。この頃には、妹も同居するようになりました。

画像:四代目澤村源之助 public domain
さらに、お梅が以前から目をかけていた、歌舞伎役者・四代目沢村源之助の元付き人で、芸妓時代には箱屋としてお梅に付き従っていた峰三郎(峯吉とも)も、酔月楼の番頭として迎え入れました。
ところが、父親は元士族でプライドが高く商売はヘタな上に、妹と一緒になってお梅の貯金に手をつけたともいわれ、三人の間では絶えず喧嘩が起きていたようです。
そのうえ、峰三郎もお梅の着物を持ち出したり、あちこちで悪口を言うなど、お梅との関係は次第にぎくしゃくしていきました。
頼れる相手がいない状況の中で、お梅は精神的に追い込まれていったのです。
雨降りの夜、峰三郎を刺殺したお梅
1887年(明治20)6月9日の雨の夜、お梅は浜町河岸で峰三郎と遭遇し、刃物で刺す事件を起こしました。
峰三郎はその場から逃げましたが、のちに死亡が確認されています。
お梅は犯行直後、その場から動けないほど動揺しており、父親に付き添われて自首したと記録されています。
この事件の動機については、当時の新聞や後年の評伝で複数の説が語られており、内容は一致していません。
・源之助にクビにされた峰三郎を酔月楼で雇ったのに、彼が仲の悪い父・専之助の肩ばかり持った
・峰三郎が父と組んで店を乗っ取ろうとしていた
・峰三郎が横恋慕してつきまとい、お梅が鬱陶しく感じていた
・口論の最中にお梅の短気が爆発してしまった
・実は峰三郎のほうが先に刃物を向けてきたため、お梅がとっさにやり返した
諸説入り混じっており、どれが事実なのかははっきりしていません。

画像:花井お梅 月岡芳年 public domain
自分の「峯三郎殺し」をネタにした芝居を
お梅は事件から約15年後の明治36年(1903)、特赦によって40歳で釈放されました。
出獄の際には、かつての美人芸妓を一目見ようと多くの野次馬が集まり、その混雑を避けるために裏口から静かに出たと伝えられています。
釈放後のお梅は、浅草で汁粉屋、神田で洋食屋を開くものの、物珍しさから訪れる客ばかりで商売としては続きませんでした。その後、牛込で小間物屋を始めましたが、これも長続きしなかったようです。
生活が安定しない中、お梅は自らの事件を題材にした芝居の巡業に参加し、舞台に立つようになります。
事件後に芸事を披露したという記録も一部にあり、出獄後は興行の世界で生計を立てようとしていた様子がうかがえます。
その後、大正5年(1916)には新橋の芸妓として復帰し、「秀之助」を名乗りましたが、その年の冬に肺炎を患い、53歳で亡くなりました。

画像:豊原国周「花井おむめ 尾上菊五郎」 public domain
お梅の事件はさまざまな作品に残された
この事件は当時大きな反響を呼び、新派劇や評伝、音曲、映画など、多くの作品に取り上げられました。
作品ごとに細部の描写が異なるため、現在に伝わるお梅像にもさまざまなバリエーションが生まれています。
お梅の墓は東京都港区西麻布の長谷寺にあり、そのそばには1935年の流行歌『明治一代女』を作詞した、藤田まさとの歌碑が建てられています。
「十五雛妓であくる年 花の一本ひだり褄 好いた惚れたと大川の 水に流した色のかず 花がいつしか命とり」
お梅は亡くなる前に「罪を悔い改めた」と語ったと伝えられています。
親に売られて芸妓となり、事件後は世間から「毒婦」と呼ばれ、噂ばかりが独り歩きする一方で、複雑な人間関係に悩みながら生きた姿も伝わっています。
その歩みには、明治という時代ならではの光と影が色濃く宿っていたのでしょう。
参考:
「毒婦伝 高橋お伝、花井お梅、阿部定」中央公論新社 朝倉喬司
『幕末明治風俗逸話事典』東京堂出版 紀田順一郎
「花井お梅懺悔譚」国益新聞社 井政光 編
『欧洲大戦当時の独逸』審美書院 ベルツ花子 著
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
























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