はじめに
丸に十字の家紋として知られる薩摩国の島津氏は鎌倉時代から江戸時代の薩摩藩まで約700年にわたって同じ国を統治したことで知られている。
島津氏について3回に分けて取り上げた。1回目は鎌倉時代に薩摩国の守護職に任命されてから室町時代中期の応仁の乱までの変遷について取り上げた。
2回目は戦国時代から関ヶ原の戦いまでの島津氏の戦いについて取り上げた。
今回は幕末の薩摩藩と島津氏について取り上げたい。具体的には、島津氏28代目当主島津斉彬(しまづ なりあきら)から倒幕に向けての薩摩藩の変遷について取り上げたい。
また、西郷隆盛や大久保利通など下級武士が台頭する過程についても取り上げたい。
島津斉彬による藩政改革
※島津斉彬
薩摩藩と言えば、幕末に長州藩とともに江戸幕府の倒幕に向けて動いた藩として知られている。幕末には大久保利通や西郷隆盛など下級武士の台頭、明治時代以降に黒田清隆や松方正義など多くの総理大臣を輩出した。そのきっかけになったのが28代目当主である島津斉彬の藩政改革であると言われている。
島津斉彬が当主だった頃、アジアの多くが欧米列強の植民地となっていた。当時の清は1840年に起こったアヘン戦争でイギリスに負けるという情報を外国の商人から得た。また、アメリカの船が日本近海に現れるようになり、ペリー来航後は外様大名として幕府の合議に参加したと言われている。外国の動きを警戒して始めたのが藩政改革であり、西洋化であると言われている。
島津斉彬の具体的な西洋化の政策として、集成館という工場群を建設した。当時の工場群についてはアジアで史上初の近代産業を興すための工場を建設したことで知られている。工場では西洋式の砲台や反射炉などが建設されたという記録が残っている。当時、西洋化を進めたのは薩摩藩だけでなく佐賀藩も改革を進めたと言われている。
薩摩藩は外様大名の中では珍しく、将軍家との縁戚関係がある。将軍との縁戚関係については13代将軍徳川家定の成立となった篤姫が有名である。また、島津斉彬は縁戚関係を利用して13代将軍家定の後継として、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推薦した。しかし、大老井伊直弼が推す徳川慶福(後の家茂)との争いに負けた。
14代将軍が徳川家茂になることが決まると、幕府に反対する勢力を弾圧する安政の大獄が始まる。薩摩藩は幕府から直接弾圧を受けることはなかったが、28代目の当主斉彬が急死した。この後を島津忠義が29代目当主として引き継ぐことになるが、歴史の表舞台に出てくるのは忠義の父である島津久光である。
倒幕に向けて
※島津久光画像。薩摩藩最後の藩主島津忠義の実父。
島津久光が薩摩藩の国父として活動を始めた頃、大老井伊直弼が桜田門外の変で討たれた。当時久光は公武合体(朝廷と幕府を結びつける : 対義語は尊皇攘夷)で動いていた。
長州藩が八月十八日の政変で公家の三条実美らとともに京都を追放されたことに反発して、御所を攻めた禁門の変(蛤御門の変)では幕府方について長州藩を追放したことに成功した。
1862年、島津久光が江戸から薩摩に帰るときに外国人が大名行列を横切ったため供回りの藩士たちが外国人を斬りつけた。
このことは後に生麦事件と言われ、この事件の報復として薩英戦争が起こった。イギリスとの戦争で、武器の性能の面で格差があることを知ることになった。
※事件当時の生麦村。東海道にそった集落の神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)近辺と見られている
その後、坂本龍馬との仲立ちで長州藩と同盟を結び、28代目当主島津斉彬の頃に登用された下級武士の大久保利通や西郷隆盛が台頭し、倒幕に向けて動くことになった。
おわりに
今回は島津斉彬の頃から江戸幕府が終るまでの薩摩藩と島津氏について取り上げた。
大久保や西郷の活躍が取り上げられ、江戸幕府が終って、明治新政府になってから黒田清隆や松方正義など多くの総理大臣を輩出した藩として知られるようになる。
島津斉彬の後を継いだ忠義や久光ら島津氏の活躍についてはほとんど歴史の表舞台で取り上げられることはないが、明治時代になってから華族になったという記録が残っている。
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