龍馬暗殺の実行犯
今井信郎(いまいのぶお)は幕末の武士であり、幕臣として京都見廻組を始めとした組織に仕えた人物です。没後から2018年でちょうど100年を迎えました。
今井がその名を現在に伝えられているのは、坂本龍馬を暗殺した近江屋事件に関与した人物であったためす。
現在でもその実行犯を含め、暗殺の全貌が定かではないこの龍馬暗殺事件において、今井が関与したことは間違いのない事実のようですが、龍馬と同じく刺客の手にかかりながらもまだ息の合った中岡慎太郎から状況を聞いた土佐藩士の谷干城などは、今井が後に証言した内容を売名行為であると非難しました。
今井信郎 証言の正否
今井は戊辰戦争で函館まで戦った後に新政府に投降し、明治3年(1870年)にその取り調べに際して、龍馬暗殺は京都見廻組によって行われたことを証言しました。
今井は自らは建物の外で見張りを行い、実際に襲撃を行ったのは見廻組の与頭であった佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安太郎、桂早之助らであったと証言しました。
しかしこれらの4人は皆、鳥羽・伏見の戦いで全員が死亡しており、今井の証言はそれ以上の追求を交わす目的で意図的に行われた疑いが持たれています。
実行犯は先の4名ではなく今井自身と他2名で、その襲撃の成否の確認を行う立場が佐々木であったのではないかとも言われています。
見廻組への編入
今井が龍馬暗殺の実行犯と目されるているのには、その剣の腕前がありました。
今井は天保12年(1841年)に江戸本郷の旗本の家に生まれましたが、18歳で直心影流道場に入門するとその後僅か2年で皆伝を許された達人でした。この剣の才を見込まれた今井は、幕府の講武所の師範代も務めたとされています。
その後今井は、慶応3年(1867)5月に風雲急を告げる京で治安維持を担当していた京都見廻組への編入を告げられました。
この命を受け今井は同年10月に上洛すると、見廻組肝煎という高い役職に着任しました。そしてその約1ケ月後に龍馬暗殺事件に関与することになりました。
西郷の助命嘆願
その後の今井は見廻組の一員として、新政府軍との鳥羽伏見の戦いに従軍しました。この戦いで見廻組はほぼ壊滅したため、今井は衝鉾隊に加わって戊辰戦争の最終の地である函館まで戦い続け、最終的に投降して新政府の取り調べを受け、この時に今井は先の龍馬暗殺についての供述をしました。
それから僅か2年後の明治5年(1872年)、今井は特赦を受けて釈放されました。このとき今井の助命を熱心に嘆願したのが西郷隆盛であったと伝えられており、なぜ西郷がそうした行動をとったのか定かではありません。
確かに西郷は龍馬と親しい間柄であり、龍馬とお竜の日本初とも言われる新婚旅行の周旋までした人物でした。その西郷隆が龍馬の殺害を自供した今井を何故助けようとしたのかは謎のままです。
このことが龍馬暗殺の黒幕は薩摩藩だとする巷説の原因ともなっています。
クリスチャンとなった晩年
今井は、明治11年(1878年)に静岡県の初倉村に移り住むと、初倉村の村議や村長を務めました。その頃、横浜の横浜海岸教会においてキリスト教の教義に触れて感銘を受け、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。
その後の今井の晩年はクリスチャンとして社会への奉仕活動に従事したとされています。
今井は、大正5年(1916年)に脳卒中で倒れると、2年間後の大正7年(1918年)に龍馬暗殺の謎を残したまま享年76の生涯を終えました。
この記事へのコメントはありません。