吉田松陰
吉田松陰(よしだしょういん)といえば、教科書にも名を載せる幕末を代表する思想家である。
彼の営んだ松下村塾が、後の明治維新を作ることになる多くの若者を輩出したことは有名な話だ。
そんなまさしく偉人と呼ぶにふさわしい吉田松陰であるが、実は彼が旅行のために脱藩を犯したという話をご存知だろうか。
松陰の東北旅行
各藩が独立した権限を持っていた江戸時代、一般に庶民の旅行は自由なものではなかった。
各所に関所が設けられ、人々の移動は厳格に制限されたのである。旅行をするのにも藩の許可が必要であり、旅行者は藩から発行された通行手形を関所に提示する必要があった。
これは今でいうパスポートのようなものであり、藩から許可を得ずに他藩へと旅行することは脱藩扱い、立派な犯罪になったのである。幕末にもなると脱藩による刑罰は半ば形骸化していたとはいえ、脱藩という行為はやはり主君に対する裏切りに他ならず、常人ならばまずやろうとは思わないものである。
松陰も当然そのことは承知していたし、東北を旅行する時も当初は規定通り藩から許可が下りるのを待つつもりだった。しかし、届け出を提出した後もいつまで経っても通行手形が届かず、刻々と友人との約束の日が迫っていった。藩での通行手形発行の手続きに時間がかかり、旅行の日に間に合いそうになかったのだ。
そして友人、宮部鼎蔵と江幡五郎との約束の日が迫り、業を煮やした松陰はとうとう藩からの許可が下りないまま東北旅行へと赴いてしまうのである。
嘉永5年、松陰はこうして旅行のためというあまりにもあっさりとした理由で脱藩に踏み切ったのだ。
何のための東北旅行だった?
そもそも松陰は何のために東北旅行へと赴いたのか。
最初のきっかけは1840年、お隣清国でのアヘン戦争だった。
アヘン戦争とはイギリスの清へのアヘン大量密輸がきっかけで始まった戦争で、「眠れる獅子」である清がイギリスにあっさりと敗れてしまった戦争である。
当時の人々は列強に支配されていく清の惨状を見てやがて日本もこうなるのではないかという危機感を募らせていった。それは松陰も例外ではなく、当時多くの若者がそうであったように「このままではいずれこの国は滅びてしまう」と次第にそんな危機感を抱くようになったのだ。
列強に対抗するためには東洋の学問ばかりを学んでいてはだめだ、洋学を学ばなければならない。そう考えた松陰は嘉永4年、江戸遊学を決める。
しかし、江戸でも松陰が満足のいくような指導は受け取られなかった。これではまだ足りない、もっと自分の足で、自分の目で見て学ばなければ。そんな思いが強くなっていく中、松陰は東北旅行を決心するのだった。
嘉永6年にペリー率いる黒船が浦賀に来航したことは有名な話だが、当時日本に通商を求めてやって来ていたのは何もアメリカだけではなかった。アメリカの他にも当時イギリス、ロシアといった国が日本の周りをうろついており、日本を取り巻く状況は非常に緊迫したものとなっていたのだ。
そして東北である。東北には通商を求めてたびたびロシア船がやって来ていた。そのことを知った松陰は友人を誘い、いざ東北へと旅行を決めたのだった。
つまり脱藩を犯してまで行った東北旅行は松陰にとってはただの旅行ではなく、見聞を広めるための旅行であり、ひいては国を変えていくための第一歩ともいえる大切なものだったということである。
最後に
松陰にとってこの旅行は特別な意味を持つ大事なものだった。
しかし、だからといって「友人との約束の日にちを過ぎてしまう」という理由で脱藩に踏み切るのはやはり常人からは考えられない行為だ。
約束の日を延ばしてもらうでも先に出立を勧めるでもなく、わざわざ取らなくてもいいような手段を取るのは松陰の性格ゆえだったのだろうか。義理堅いともいえるだろうし破天荒とも思えるようなこの行動は、吉田松陰という人間性を知る上で重要なエピソードの一つだろう。
幕末の偉人、吉田松陰。立派な思想家として名高い人物であるが、こうしたエピソードを知ることで彼の持つ松陰らしさがより近くに見えてくるような気がする。
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