梟首(晒し首)にされた美女
明治5年(1872)2月20日、ある女が小塚原刑場で処刑され、その首は3日間晒し置かれた。
2月23日発刊の東京日日新聞が報じた捨札(罪人の氏名・罪状などを記した立て札)の写しは、次のようなものであった。
捨札の寫(うつし)
東ヶ井府貫ゾク(東京本籍) 小林金ペイ(平)妾ニテ 浅草駒形チヨウ(町) 四番借店(借家) 原田キヌ 歳二十九
此者ノギ(の儀)妾ノ身分ニテ嵐璃鶴トミツゝウ(密通)ノ上、主人金ペイオ(を)毒殺ニ及ブ段不届至極ニ付、浅草ニオイテキヨウボク(梟木)ニオコナウ者也。ミギ(右)ハ當(当)二十日ヲン(御)仕置トナリ昨廿二日迄三日ノ間、同處(所)ニ晒アリタリ。猶(なお)リカク(璃鶴)ノ處置ハ次號(号)ニ出ス。
当時、妾は正式な妻ではなかったが妻同然の扱いで、配偶者以外と性的関係を持つことは罪になったという。
原田キヌ(29)は、歌舞伎役者・嵐璃鶴(あらし りかく)と不義密通を重ねた上、主人・金平を毒殺したため梟首(晒し首)になった。
キヌは玉のように美しい容姿と美声を持ち、人々の心を惹きつけ、その毒婦の色気は恐るべきものだったという。相手の璃鶴もたいへんな美男子で何人もの女性を惑わしていた。
キヌが夫の毒殺の疑いで逮捕されたのは、明治4年(1871)7月10日で、璃鶴も共犯者として逮捕された。
この時、キヌは璃鶴との間にできた子を妊娠しており、5ヶ月を過ぎていたという。
当時の刑では、出産から100日後に処刑が執行されることになっていた。
キヌは牢屋内で男子を出産し、翌5年2月20日に刑が執行されたのだった。生まれた子供は商家に里子に出されたという。
キヌの犯行
原田キヌは、弘化元年(1844)に若林佐渡守の家臣・原田大助の長女として生まれた。
キヌが3歳の時、父親は若林家から暇を出された。安政5年(1858)に両親が死去し、キヌは叔父に養われたが同年9月頃に下谷御徒町の元御家人・小林金平の妾になった。金平は大金を蓄えており、キヌは何の不足もない生活であった。
慶応4年(1868)春、戊辰戦争が始まり、金平は小梅村(現・墨田区)に転居した。
明治2年(1869)12月頃、金平は猿若町(現・台東区)の寮を借りてそこにキヌを住まわせた。猿若町は現在の浅草6丁目付近で、中村座・市村座・森田座の歌舞伎劇場三座があり芝居町として栄えていた。
芝居町には芝居小屋とともに「芝居茶屋」があり、明治時代の芝居茶屋は「生活に余裕がある夫人が役者を買う場所」でもあったという。
キヌも日頃から芝居見物しており、キヌと嵐璃鶴の出会いは役者買いであったとされる。
キヌは璃鶴の家を訪れるようになり、2人の関係は深くなっていった。
キヌは璃鶴のことが忘れられず、璃鶴を恋しく思うほど主人・金平を嫌っていった。
ある日、キヌは王子稲荷の参詣からの帰りに、「縁切り榎」の木の皮を剥いで持ち帰った。
「縁切り榎」とは板橋にある榎の木で「その皮を煎じて別れたい相手に飲ませると縁が切れる」といわれていた。
キヌは、それを事情を知っている下女に「金平をうまく騙して飲ましてほしい」と頼み、璃鶴の所に出掛けた。
この頃、金平が猿若町の寮に来てもキヌは不在がちであった。金平は不審を抱き、帰ってきたキヌに「どこに泊まっていた?」と問いただした。
そして金平は、口ごもるキヌをキセルでめった打ちにした。ついにキヌは璃鶴とのことを打ち明け「これからは心を入れ替えるから、今度の不始末はどうか許して下さい」と詫びた。
金平はキヌの髪を切り、それを改心の証として許した。しかし、璃鶴を愛するキヌは金平の目を忍んで度々会っていた。
一方で璃鶴は、キヌが金平の愛妾だと知ると関係を断とうとした。
しかし、キヌは「璃鶴と会えなくなるなら死ぬ!」と剃刀を取り出したのである。
結局、璃鶴はキヌとの関係を断つことが出来なかった。そしてついにキヌは「恩も義理も、愛しい男には替えられない」と、金平の毒殺を計画したのだった。
ある日、キヌは「マチン(猛毒ストリキニーネ)」を手に入れた。
それは、以前から出入りしていた深井伊三郎を騙して入手したもので、キヌは粉末のマチンを煮しめの中に混ぜて金平に勧めた。しかし、苦味が強かったため金平は2度と手をつけず、毒の効果もみられなかった。
明治4年正月、金平は「気持ちが悪い」と寝込んでいた。キヌは「これは良い機会」と、再び金平を殺そうと考えた。
1月5日、キヌは「ネズミ捕り薬」2包を手に入れた。そして1包を干飯に混ぜて湯を煮立てた。
キヌは金平に「何も食べないのも体に毒です。ちょうどもらった道明寺の干飯の湯など一口召し上がって下さい」といって差し出した。
金平は干飯汁を何気なく飲んだが、特に変わったこともなかった。その夜、激しく嘔吐したが命に関わることはなかった。
それから数日後の12日正午、キヌは金平に残りの1包を「医者からもらった薬です」と嘘をつき直接飲ませた。その夜、ついに金平は悶死したのだった。
キヌの逮捕
キヌは近所や親戚への連絡を済まし、その後16日に小林家のキヌの後見役・吉左衛門と伊三郎が訪ねて来た。
吉左衛門は金平を湯灌していた際に、遺体の所々に肌の色が違う箇所があることに気付き、不審に思ってキヌに尋ねたが、キヌは「よほど熱が激しかったからでしょう」と間に合わせの嘘をいった。
吉左衛門は詳細は尋ねず、金平の遺体を棺に納めて壽昌院に送って葬った。
2月5日、キヌは久しぶりに璃鶴に会い「金平を毒殺したわ」と告白した。璃鶴は驚き恐れ慄いていたが、キヌはそんな璃鶴に「邪魔は払った。一生連れ添って」と伝えたのだった。
璃鶴は言葉を失っていたが、さらにキヌは「いまさら何を考えているの、男らしくないね」と微笑んだ。
璃鶴は「それほど思ってくれて嬉しいが、このことが世間に知れればあなたは元より主殺しで、私も同罪になる。お互いのためにもしばらくは遠ざかって世間の疑いを招かないようにしよう。旦那が亡くなって間もなく夫婦になっては人々に噂されて身の破滅になる。油断できない」とキヌに言い聞かせた。
金平の遺産は金平の弟が一人占めし、キヌには入っていなかった。そこでキヌは親戚を呼んで生前金平が金を借りたように書類を偽造し、弟にその金を請求することを企んだのだった。
しかしこの時、庶民の間で金平の病死に不審があると噂になり、さらにキヌと璃鶴が密通していたことが知られると、その噂は広まっていった。そして7月10日、その噂によりキヌは屯所に引き立てられ調べを受け、証拠を押さえられてすべての悪事を白状したのだった。
キヌの斬首と処刑前の様子
この時キヌは妊娠しており、明治4年11月8日に牢屋内で男子を出産し、翌5年2月20日に斬首されて首を晒された。
嵐璃鶴も、徒刑2年半の刑に処せられた。
処刑前、荒むしろの上に座らせられたキヌは、役人に「璃鶴さんはどうしましたか?」と聞いた。
役人は、璃鶴が生きているとは言えず「もうあの世で蓮の台(うてな)に坐り、半座を空けてお前を待っているだろう」と嘘をついた。
それを聞いたキヌは涙を流し「可哀想ことをしましたね」と言ったという。
事件後と毒婦読物
嵐璃鶴が出獄したのは明治7年(1874)8月16日で、その後は9代目・団十郎の門に入り市川権十郎と改名した。
その後、春木座の座頭になり華々しく活躍して新しい作品に挑戦していった。しかし、璃鶴こと市川権十郎はキヌの事件によって有名になったようなものだという。また、璃鶴が事件についてどのような供述をしたのかは不明で、明治37年(1904)3月に57歳で死去した。
29歳で梟首された「原田キヌ事件」は、明治11年(1878)5月に「さきがけ新聞」によって毒婦読物「夜嵐おきぬ物語」として連載が始められた。
この時代、毒婦読物が大衆の興味を最も集めており、同年6月には「夜嵐阿衣花廼仇夢」として出版され好評であった。
夜嵐おきぬが登場する読み物は多くあり、芝居や映画化もされたが、作品の中には事実と異なった内容のものもある。
司法と事件
原田キヌ事件は、人々の「うわさ」が探索方の耳に入り逮捕されたというものである。
当時は自白が基盤であり、他に証拠があっても逮捕者が自白するまで拷問にかけどこまでも追及した。屯所に連れて行かれると、もはや罪人扱いで黙秘したり否認すれば逆に痛めつけられたという。
明治4年1月に起きた、広沢参議暗殺事件では美人妾・福井かねが犯人とされて逮捕された。彼女は明治8年7月まで数十回の拷問に耐え、その後、無実で出獄した。事件の真相はわかっていない。
慶長17年(1612)の「消閑録」(大島逸兵衛著)では、美しいが故に捕えられ拷問にかけられ、淫婦として梟首されたという妻がいた記録が残されており、キヌの事件にもそのような要素が含まれていたかもしれない。
キヌの事件の証拠とは、身近にいた者達の証言であり、確かな証拠はない。罪をつくることはたやすい時勢であったとされる。
参考文献 : 日本猟奇・残酷事件簿、原田キヌ考、夜嵐おきぬ物語、夜嵐阿衣花廼仇夢
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