
画像:岡っ引きに捕まった罪 ukiyoestock
数多くの時代劇に登場する「伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)」。
江戸時代に実在した囚人などを収容する幕府最大の牢獄で、およそ1618年頃から1875年(市ヶ谷監獄へ移転)まで、約260年にわたって使用されていました。
延べ収容者数については明確な記録はありませんが、数十万人にのぼったとする説も存在します。
そのあまりにも過酷な環境から、当時は
「牢屋にいるよりは死罪になったほうがまし」
「伝馬町に入れられたら、病気で死ぬか、囚人に折檻されて殺される」
とまで語られるほど、悪名高い場所でした。
今回は、そんな伝馬町牢屋敷の実態とともに、脱獄して逃亡生活の末に命を落とした蘭学者の運命をたどってみたいと思います。
目次
当時の面影が残る伝馬町牢屋敷

画像:大安楽寺内の伝馬町牢屋敷処刑場跡。wiki Onething
伝馬町牢屋敷の跡地は、東京都中央区の小伝馬町駅近く、小伝馬町3丁目から5丁目の一帯にあたります。
牢屋敷の東側には、十思(じっし)公園や大安楽寺があり、周囲はビルが立ち並ぶ中にある、落ち着いた雰囲気の普通の公園となっています。
十思公園内には、かつて処刑の合図に使われた「石町時の鐘」が設置されています。
また、吉田松陰が処刑された場所であることを示す『松陰先生終焉之地』の石碑が建てられています。
他にここで命を落とした著名人としては、近年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』でも話題となった平賀源内もよく知られています。
脱獄して硝酸で顔を焼いて人相を変えて医者になるも…
そして、伝馬町牢屋敷に収監された人物といえば、医師・蘭学者として知られる高野長英の逸話が有名です。
江戸幕府の攘夷政策に異を唱えて捕らえられ、永牢(終身刑)の判決を受けたものの脱獄に成功。
逃亡生活を続けた末に、壮絶な最期を遂げたことで知られています。

画像:高野長英 椿椿山 – 高野長英記念館所蔵品。public domain
高野長英は、文化元年(1804年)に陸奥国水沢で生まれました。
若い頃、養父で医者だった高野玄斎の影響を受けて蘭学を志し、江戸では杉田伯元や吉田長淑に学び、さらに長崎ではシーボルトの鳴滝塾で医学とオランダ語を修めました。
26歳の頃にはすでに蘭学者として知られる存在となっていたとされます。
天保8年(1837年)、日本人漂流民を乗せた米国の商船モリソン号を、日本側が砲撃するという「モリソン号事件」が起こります。

画像:日本の砲台が砲撃したアメリカ合衆国の商船「モリソン号」public domain
これに対し、蘭学者たちのグループ「蛮学社中(ばんがくしゃちゅう)」のメンバーは、幕府の閉鎖的な姿勢を批判しました。
長英は、打払い政策に婉曲に反対する著作『戊戌夢物語』を匿名で執筆し、渡辺崋山も私文書『慎機論』で同様の批判を行いました。これらの意見は一部幕臣にも影響を及ぼしましたが、それを危険視した幕府は、天保10年(1839年)に両者を逮捕。
いわゆる「蛮社の獄」として知られる言論弾圧事件となりました。
長英は幕政批判のかどで捕らえられた後、永牢終身刑の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監されました。
けれども、牢内では囚人たちの医療に努め、劣悪な牢内環境の改善などにも尽力したことで、牢名主として祭り上げられるようになったそうです。
その後、弘化元年(1844年)に牢屋敷で火災が発生し、長英は「※切り放ち」と呼ばれる避難目的の一時釈放措置で牢の外へ出されました。しかし、彼はそのまま戻ることなく逃亡します。
※切り放ち:火災時の避難目的での一時釈放が制度。「三日以内に戻れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処す」とされた。
この火災は、長英が牢内で働いていた者を使って放火させたとの説もありますが、確証はなく、あくまで一説にとどまっています。
脱獄後の詳細な経路は不明ですが、仲間に匿われたり伊予宇和島藩主・伊達宗城に庇護されたりしながら、各所でさまざまな功績を残したそうです。
ところが、居場所が幕府に露見したという情報が入り、硝酸で顔を焼いて人相を変えて江戸に戻り、偽名で町医者を開業しました。
その後、脱獄から6年後に「何者かの密告により」捕縛され、自刃したと伝わります。(諸説あり)
高野長英と親交があった小関三英
その高野長英と親交があったのが、同じく医者・蘭学者で、日本に皇帝ナポレオンを紹介した小関三英(こぜきさんえい)でした。
小関は、天明7年(1787)に出羽国(山形県)庄内地方・鶴岡に生まれ、長崎ではシーボルトに師事していたとされます。(最近では、シーボルト門下とする典拠はないという説も)
江戸では、蘭学者で蘭学医の吉田長淑や、同じく蘭学者でオランダ通詞でもある馬場佐十郎より、蘭学を学びました。
天保3年(1832)には和泉国(大阪府南西部)岸和田藩の藩医となり、のちに幕府の天文方阿蘭陀書籍和解御用、すなわち翻訳係となります。
ちょうどこの頃に、武士であり画家だった渡辺崋山や高野長英らと親交を持ったそうです。

画像:『蘭学事始』明治2年刊。wiki c Wolfgang Michel
ところが、「蛮社の獄」が、小関三英の運命を変えることになってしまったのです。
崋山や長英が幕政批判によって牢に繋がれたことを受けて、自らも処罰の対象になるのではないかと恐れた小関は、自害という道を選びました。
伝馬町牢屋敷の過酷な環境や、囚人同士による私的制裁「作造り」が横行していた状況を知っていた小関にとって、投獄されることは「生き地獄」に等しく、「死んだほうがまし」と考えたのかもしれません。
とはいえ、小関自身には崋山や長英のように直接処罰されるような明確な理由はなかったとされており、その判断は早計だったのではないかという見方もあります。
伝馬町牢屋敷の環境
小関三英が、「牢に入るくらいなら死んだ方がいい」と恐れた伝馬町牢屋敷。
伝馬町牢屋敷の敷地面積はおよそ2,600坪(約8,595平方メートル)以上に及び、その南西の一角には、俗に牢屋奉行と呼ばれた「囚獄」の役職を世襲で務めた石出帯刀(いしでたてわき)の屋敷が置かれていました。
その敷地だけでも約480坪(約1,586平方メートル)ありました。
牢屋敷は南側を除いて三方を堀や土手で囲まれ、周囲には2〜3メートルの高さの土塀が巡らされていました。
石出帯刀のもとには、40人から80人の牢屋同心が従い、さらに囚人の世話をする獄丁と呼ばれる役人が、50人ほど配置されていたとされています。

画像:伝馬町牢屋敷平面図(『古事類苑』)。public domain
伝馬町牢屋敷は、現在の刑務所としての役割もあったものの、未決囚の収監や刑の執行までの拘置、処刑が主で、収監場所は身分によって分かれていたそうです。
収容者は身分によって厳格に区分されていました。
旗本や高僧、上級の神主などの身分の高い者は「揚座敷(あげざしき)」と呼ばれる比較的設備の整った独立区画に収容されていました。
一方、庶民や無宿者は「大牢」や「無宿牢」といった粗末な空間に押し込まれ、過酷な生活を強いられたのです。
牢内の環境は劣悪を極めており、食事は質素、日光はほとんど差し込まず、通風も悪いため、夏は蒸し風呂のように暑く、冬は凍える寒さだったといいます。そうした環境下では、感染症や皮膚病が蔓延するのも当然のことでした。
そして、実際には囚人による完全自治制で、役人ですら権限が及ばなかったと伝わります。
地獄の沙汰も金次第

画像:捕まった囚人 ukiyoestock
入牢者が増加し、牢内が過密状態になると「作造り」と称する、「人員削減」を目的とした殺人が公然と行われました。
対象になるのは、牢内の掟破りをする者、いびきがうるさい者、元岡っ引や目明しなど入牢者の恨みを買っている者、金品の差し入れがない者でしたが、特に理由がなくとも対象になる者もいました。
牢の中には凶器になるようなものはないので、濡れ手拭いを顔に押し当てて窒息させる、首を絞める、きめ板と呼ばれる厚板や雪隠の蓋で殴るなどの方法が用いられました。
特に悪名高かったのが「陰嚢蹴り」と呼ばれる方法です。
急所である陰嚢を何度も蹴り上げて強烈な苦痛を与え、意識障害や血圧低下を引き起こし、ついには死に至らしめるというものでした。
もちろん表立って許可されていたわけではないので、「作造り」で死者が出ると牢屋敷の担当医が「病死」として処理していたと伝えられています。
このような過酷な環境の中で生き延びるには、牢名主に「命の蔓(つる)」と呼ばれる賄賂を渡せるかどうかが鍵でした。
外部とのつながりがあり、十分な金品を差し入れられる者でなければ、安全を確保することすら難しかったのです。まさに「地獄の沙汰も金次第」という言葉が、牢屋敷では現実そのものだったのです。
いつ自分が対象になるかもしれない「作造り」、劣悪すぎる環境、粗末な食事など、まさに地獄そのもののような環境の牢屋敷暮らし。
そんな生活をするくらいならいっそ……と小関三英も「死」を選んだのかもしれません。
松の名木があった小関の墓・龍厳寺

画像:小関三英の墓がある龍巌寺(渋谷区神宮前 )wiki Harani0403
小関三英の墓は、現在の東京都渋谷区神宮前にある龍厳寺にあります。
この寺にはかつて「笠松」または「円座の松」と呼ばれる名木があり、葛飾北斎の『富嶽三十六景』や『江戸名所図会』にも描かれるほどの名所として知られていました。
現在その松は残っていませんが、小関の墓は今も静かにその場所にたたずんでいます。
温情だったのか…処刑時に少し遅れて鳴らされた「時の鐘」

画像:伝馬町牢屋敷跡である十思公園内の時の鐘。日本橋石町に設置されていたこの鐘が鳴ると共に処刑が執行された。wikic onething
伝馬町牢屋敷で処刑が行われる際には、「石町時の鐘」がその合図として鳴らされていたといいます。
この鐘の音が響くと、死刑が執行される時が来たことを人々は知るのです。
一説によれば、処刑の瞬間を少しでも先延ばしにするために、あえて鐘を撞くのを遅らせたこともあったと伝えられています。
ほんのわずかな時間であっても、命を長らえさせようとした温情だったのか、それともただの偶然だったのか――今となっては確かめようもありません。
現在、十思公園に移されたこの時の鐘は、かつて数多の命が消えていった歴史の証人として、静かに過去の出来事を物語り続けています。
参考:
『蛮社の獄』「蛮社の獄」のすべて 田中弘之著
『物語大江戸牢屋敷』中嶋繁雄
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。