皆さん、ちょんまげはお好きですか?
おそらく、自分の何世代か前のご先祖様もしていたであろうちょんまげ。
今ではお相撲さんか時代劇でしかお目にかかることのないちょんまげ。しかし見れば見るほど不思議なヘアスタイルです。その昔、ちょんまげを始めてみた異国の人は頭の上に銃を乗せていると思ったとか・・・。小さい頃に初めてちょんまげを見た瞬間というのは誰にでもあったはずです。
その時にそれほど疑問に思わずに受け入れてきたということは、私たちのDNAにちょんまげがすりこまれているということでしょうか?またちょんまげが流行する日に備えて??
ちょんまげについて調べてみました。
ちょんまげはちょんまげではない?!
皆さんがちょんまげだと思っている髪型、正確にはちょんまげではありません。
丁髷(ちょんまげ)とは江戸時代に老人など頭髪の少なくなった人がしていた髪型の呼び名です。
少ない髪の毛を集めて結い上げた髪の形がゝ(ちょん)の字に似ていたことからその名がついたとされています。つまりはちょんまげとは小さな髷(まげ)という、髷の一種の呼び名です。現在私たちがちょんまげと呼んでいる髪型は大銀杏という髷の一種、お相撲さんがしているあの髪型のことです。
髷とはもともと髻(もとどり) から派生したものです。
髻とは頭髪を頭上に集めて束ねた部分のことで、飛鳥時代以降に冠をつける際に便利ということで始まりました。
平安時代末期には貴族の冠や武士の兜をつける際に頭頂部が蒸れるのを防ぐために前頭部から頭頂部にかけて剃り上げ、後部の髪で髷を結う「月代(さかやき)」が始まりました。
※月代をした浅井長政
この月代、戦国時代には武士の間で大流行したそうです。命を守るためとはいえ頭部の蒸れは武士を悩ませていたのですね。
江戸時代になると武士だけではなく庶民の間にも月代や髷が広がります。
この時代は士農工商の身分制度が厳格に決まっていた時代ですが、身分のヒエラルキーのトップである武士に憧れて広まったようです。
今の時代に例えると一流のアスリートや芸能人の髪型を真似するようなものですね。
ただしそこは粋が売りの江戸っ子、まったく同じように真似をするのではなく各人がオリジナリティある髪型を工夫していました。
髷を折り返した毛先を銀杏の葉の形にした銀杏髷(これが現在、ちょんまげと呼ばれているものです)には、主に武士がしていた大銀杏、町人がしていた小銀杏などがあり、その中でも商人は銀杏を小さくまとめ、職人は男らしさを強調するために太く短く結うなど職業によっても髷のスタイルに差がありました。
月代を広くして髷の先をネズミのしっぽのようにした本多髷(は粋の象徴のような髪型で、このスタイルにしていないと吉原遊郭に遊びに行っても相手にされなかったとか。
この他にも歌舞伎役者などが好んだ茶筅髷や、主君を持たずお金に窮していた浪人などがしていた月代を作らず結い上げただけの総髪(そうはつ)など身分や主張の数だけ髷のスタイルもありました。
※総髪(月代の無い髪型)
月代のお手入れ方法
兜が蒸れて頭がかゆくなるのを防ぐために月代を作ったとされていますが、それなのに江戸時代の洗髪は月にせいぜい1 ~ 2 回だったという衝撃の事実が判明しています。
1か月近く髪の毛を洗わない方がよっぽどかゆくなりそうな、かえって頭皮に悪そうな気がするのは現代人の感覚でしょうか・・・。
しかしそこには洗髪を月に1~2 回しかできないちゃんとした理由があったのです。
江戸時代、水は大変な貴重品でした。
毎日髪の毛を洗うのに好きなだけ水を使っている私たちには想像もできないくらい、水は大切に使われていたのです。
さらに電気のない時代ですからドライヤーも当然ありませんでした。あれだけ男女ともロングヘアーだったということは乾かすのも大変だったに違いありません。
天気が良い日を選んで洗っていたようですが、梅雨時や冬は大変だったでしょうね。
ちなみに当時の人々はうどん粉や布海苔という海藻、粘土や灰汁(あく)で髪の毛を洗っていたそうです。
天然素材で髪の毛に良さそうですが、すすぎづらそうですね。
洗髪も大変でしたが、なにより苦労していたのが月代のお手入れです。
江戸時代初期の「慶長見聞録」には「黒血流れて物すさまじ・・・」という描写がありますが、ここから月代の手入れがいかに過酷だったかがわかります。
というのもこの頃のお手入れ方法とは・・・
ひたすら毛抜きで抜く!
だけ・・・・
木製の毛抜きで一本一本月代の面積内の髪の毛を抜く!というものだったからです。
ものすごく痛そう、というか痛いに決まっています。しかも生えるたびに抜く、髷を結っている限り一生抜き続けるというなんとも大変な作業を日本中の男性が行っていたのですね。
その後ようやくカミソリで整えるようになったということですからさぞや月代抜きに苦労していた男性の皆さんは喜んだことでしょう。
月代のお手入れは自分でもできましたが結い上げるとなるとプロの手をかりなくてはなりません。
そこで武士は廻り髪結いという通いの床屋さんと契約して10日~2週間に1度、定期的に通ってもらっていました。
庶民は髪結い処と呼ばれた床屋さんに通っていました。
料金は280 文くらい(今なら6000 円くらい)で、庶民の社交場でもありました。
髷の結える結えないは死活問題
年齢とともに髪の毛のボリュームがなくなるのは今も昔も同じですが今以上に「髪は男の命」だったことは間違いなさそうです。
というのも当時の武士の間では「髪が結えぬは武士の恥」という考えが一般通念としてあったからです。
そうはいっても、どんなに努力をしても減っていく髪の毛はいかんともしがたい・・・
そこで髪の毛が薄くなってしまった武士はつけ鬢(つけびん)という女性の抜け毛を集めて作ったつけ毛やオーダーメイドのカツラを作ってしのいでいたそうです。
しかも若い武士がカツラをつける際には主君の許可が必要だったそうですよ。
このような努力を重ねてもどうしても髪が結えなくなったらどうしたか?
家督を息子に譲って引退したそうです。
ご隠居さんになる理由は年齢だけではなく頭髪のせいで・・・という人もいたのですね。
最後に
その後、1871 年( 明治4 年) のに明治政府が布告した「散髪脱刀令」、さらには明治天皇の断髪により日本から髷スタイルは消えていきました。
現在では大相撲の力士がしている大銀杏が唯一髷の文化を伝えているにすぎません。
けれどもかつて髷を結っていた日本人がいたという記憶はTVや書籍を通して末永く伝えられていくでしょう。
もしかしたらいつの日かまた髷ブームが来るかもしれませんしね。
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