江戸幕府による鎖国の目的は?
豊臣家を滅ぼし、唯一の天下人となった徳川家康は、「一国一城令」「武家諸法度」など、次々と制度を定めて、江戸幕府の体制(幕藩体制)を固めていきます。
その一方、諸大名が外国との交易で強力な火器や硝石を手に入れることを恐れました。そのため貿易を一元化し、幕府の強力な管理下に置くことが必要でした。幕府が「鎖国」を敷いた最大の理由です。
豊臣秀吉の時代、朝鮮出兵によって明との貿易再開が挫折すると、秀吉は海外へ渡航する商人に許可証(朱印状)を発給し、貿易の統制に乗り出します。家康もこれを踏襲し、慶長9年(1604)に朱印船を制度化します。
九州の諸大名や日本在留の外国商人、また堺や博多の商人にも朱印状は発給されました。
渡航先はオランダ領台湾、スペイン領ルソン(フィリピン)、ベトナム北部の安南王国、中部の広南王国、シャム(タイ)のアユタヤ朝、ポルトガルとオランダが争奪するマラッカにまでに及びました。
「平和」は素晴らしいこと…しかし…
家康による天下統一のあと、国内では武器の需要が激減したため、余っている日本製の刀剣や鉄砲が海外へ輸出され、代わりに東南アジア産の香木などが輸入されました。朝鮮出兵以降、明との国交断絶が続いたため、東南アジアの港で中国船と出会貿易を行うことも、朱印船貿易の大きな目的でした。
武器に加えてもう1つ、17世紀の日本から「輸出品」となったものがあります。
それは「傭兵」です。
天下統一が実現し、平和が訪れたことは素晴らしいですが、見方を変えると戦を専門とした兵士たちは「流浪の身」となりました。つまり失業状態、いわゆる「浪人」です。
多くの浪人が生まれてしまった原因は、織田信長にあります。「楽市・楽座」という経済政策によって莫大な利益を上げた信長は、それを原資として軍事改革を行います。
いわゆる「兵農分離」です。職業の分業化が進められ「農民は農業に」「商人は商売に」「兵士は戦争に」…それぞれを専念させました。
兵農分離が実施される以前、戦に参加していた兵士はほとんどが農民になります。そのため兵士たちは、米の収穫期には本国に戻らないといけないため、好きなタイミングで戦をすることができません。
信長は「楽市・楽座」で稼いだ利益によって兵士を雇い、農民中心だった軍隊から戦専門の兵士への育成を図りました。農民中心の「徴兵制」から、給料を払う「傭兵制」に切り替えたのです。
信長の「兵農分離」は、戦しかできない人々を大量に生み出してしまいました。家康がもたらした「平和」は、彼らから就労機会を奪ってしまったのです。
海外に行けば、いくらでも「戦」がある
しかし海外ではいつでも、どこかで戦があります。朱印船に乗れば海外渡航は簡単でした。激しい戦いにも慣れ、最新の鉄砲を扱える日本人傭兵。彼らが東南アジア諸国に流出したことは、現地の政治状況をも一変させます。
東南アジアで香辛料貿易に従事していた、オランダ東インド会社の総督・ピーテルスゾーンが「日本人傭兵なしに東南アジアで戦争はできない」と言うほどです。
日本人傭兵の活躍事例としてアンボイナ事件(1623年)を紹介します。
当時のオランダとイギリスは、香辛料の利権をめぐって対立関係にありました。ニューギニアの西、現在のインドネシアにあるモルッカ諸島は、現地でしかとれない香辛料・丁子(クローブ)の産地として、重要な貿易拠点でした。
1599年、オランダ東インド会社は、先に進出していたポルトガル人を排除し、アンボイナ島に砦を築きます。1615年、イギリス人も同島に上陸して商館を設置しています。
日本人同士が戦った「アンボイナ事件」
両国ともに日本人傭兵を引き連れており、にらみ合いが続く状態でした。
1623年、ある夜にオランダの要塞を下見していた日本人傭兵の七蔵が捕らえました。オランダは彼を拷問にかけて、イギリス側の襲撃計画を自白させます。
襲撃情報を得たオランダはイギリス商館を急襲。このとき30余名が捕らえられて激しい拷問を受け、イギリス人10人、日本人9人らが処刑されています。
しかし、本当にイギリスが襲撃計画を立てていたのか疑わしいという説もあります。ピーテルスゾーンはオランダの貿易独占を主張しつつ、当時のオランダ政府の対応を弱腰と非難しており、この襲撃計画自体が彼によるでっちあげだった可能性もあるのです。
この出来事が「アンボイナ事件」ですが、オランダ側も日本人傭兵を雇っていたため、実際には日本人同士が戦っていました。
当時のオランダは、世界貿易の50%を支配する「覇権国家」でした。
まだ弱小国家であったイギリスは「アンボイナ事件」をきっかけとして、東南アジアから撤収し、インドの経営に専念します。また平戸にあったイギリス商館も閉鎖され、オランダが日本との貿易を独占することになりました。
当時バタヴィアに駐在していたオランダ東インド会社総督のピーテルスゾーンには「バンダの虐殺者」という異名があります。
アンボイナ事件が起きる2年前の1621年、ピーテルスゾーンは香辛料の「ナツメグ」が産地だったインドネシアのバンダ島を襲撃しています。
彼は住民を皆殺しにしましたが、このバンダ島の事件にも多くの日本人傭兵が参加していました。
終わりに
家康の天下統一は、戦を専門とした兵士たちの失業問題を生み出しました。
しかし国内にいるすべての浪人が海外に行くわけではありません。国内にいる浪人を放置しておけば、幕府への反乱に繋がってしまう危険性もあります。
この問題を家康はどのように解決したのでしょうか。また別の機会で考えたいと思います。
参考文献:茂木誠『世界史とつなげて学べ 超日本史』KADOKAWA、2018年2月
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