由利鎌之介とは
真田幸村(信繁)は、天下人・徳川家康を追い詰めたことで「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評された武将である。
大坂冬の陣で真田丸という砦で徳川軍を苦しめ、翌年の大坂夏の陣では家康の首だけを狙って決死隊で家康の陣に突入し、家康は馬印を取られ自害をしようとして家臣に止められた。
「真田十勇士」は、そんな真田幸村の活躍を支えた10人の精鋭集団として知られているが、彼らはあくまで江戸時代に創作された伝承上の架空の人物である。
しかし、その中の由利鎌之介(ゆりかまのすけ)は実在した人物であったと言われている。
今回は、実在した真田十勇士!槍と鎖鎌の達人・由利鎌之介について解説していこう。
真田十勇士とは
真田幸村をヒーローとして描いた最初の軍記物は、寛文12年(1672年)に発行された「難波戦記」である。
そして、江戸時代中期に軍記物及び絵本の「真田三代記」が発行され、真田幸村とそれに従う家臣の原型が描かれた。
画像 : 真田三代記 CC BY 4.0 DEED江戸時代後期には小説の「真田三代記」が刊行され、真田昌幸・幸村・大助の三代が徳川家に対して奮戦するストーリーが人気を博した。
後に十勇士と呼ばれる人物や、似た名前の人物が多数登場し、「真田もの」の講談の流行によって真田主従たちは、民衆のヒーローとなったのだ。
その後、立川文庫が1910年代に「智謀 真田幸村」を刊行し、「真田三勇士忍術名人猿飛佐助」「真田三勇士由利鎌之介」「真田三勇士忍術名人霧隠才蔵」の三部作が作られた。
そして「真田家豪傑三好清海入道」などの真田家の豪傑の逸話を集めた作品が刊行され、その後「真田十勇士」が刊行されたのである。
人気作品となった「真田十勇士」は映画化され、忍術使いの猿飛佐助を中心とする作品などが多数作られた。
十勇士は、「猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好伊佐入道・穴山小助・由利鎌之介・筧十蔵・海野六郎・根津甚八・望月六郎」とされ、作品によっては違う者が十勇士になることもある。
由利鎌之介は槍と鎖鎌の名手、猿飛佐助と霧隠才蔵は忍術、三好伊佐入道は薙刀の名手、望月六郎は爆弾作りの名人、筧十蔵は火縄銃の名人とされている。
「関ヶ原の戦い」後、九度山に蟄居になった真田昌幸は家臣16人を連れていったが、この時に随行した16人が十勇士のモデルとなったという説もある。
由利鎌之介の生涯
由利鎌之介(ゆりかまのすけ)は、元亀4年(1573年)に生まれたとされ、諱は「基幸」、真田十勇士の創作物では女性として登場することもある。
「真田三代記」は、あくまで講談ではあるが、由利鎌之介に関しては主に以下のような内容で書かれている。
由利鎌之介は、初めは三河の野田城主・菅沼新八郎の家臣であった。
「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に味方するために、真田勢(真田親子)が出陣すると、槍と鎖鎌の名手である由利鎌之介は、真田昌幸・幸村親子を繰り返し狙って悩ませた。
由利鎌之介は幸村配下の2人を手玉に取るが、幸村の家臣・穴山小助と一騎打ちとなった。
この勝負は実力伯仲で、翌日に持ち越しになった。翌日の勝負では、穴山小助はしばらく立ち合った後に逃げ出した。その後を追った由利鎌之介は、幸村が仕掛けた落とし穴に落ちてしまった。
しかし幸村は、敵である自分を許してくれた、幸村の人柄に感銘を受けた由利鎌之介は、その場で幸村の家臣になることを誓う。
第二次上田合戦では数々の武功を挙げたが、真田昌幸・幸村が九度山に流された時に、由利鎌之介は九度山には行かずに江戸で槍の道場を開き、家康の動向を探る諜報活動をしていた。
大坂の陣で幸村が大坂城に入ると知った由利鎌之介は大坂城に向い、幸村と共に暴れまくったが大坂夏の陣で討ち死にした。
真田幸村には同姓同名の家臣がいたため、その人物が由利鎌之介のモデルになったのではないかと考えられている。
他の十勇士のモデル
真田十勇士は、他にもモデルとなった人物がいたという。
三好清海入道は、三好三人衆の1人であった戦国武将の三好政康だとされている。
三好伊佐入道は三好政康の弟・三好政勝で、穴山小助は信玄の家臣で後に武田家を裏切った穴山梅雪の甥だとされている。
海野六郎・望月六郎・根津甚八の3人に関しては、信濃の小県の氏族だった滋野氏を祖とする「滋野三家」が海野家・望月家・根津家で、その海野家の子孫が真田氏だった。つまり、この3人は真田幸村とは親戚関係にある真田氏の一族であったという。
猿飛佐助・霧隠才蔵の2人は忍者で完全な創作であるが、猿飛佐助は秀吉の配下にいた三雲佐助がモデルではないかとされている。
筧十蔵に関しては、真田昌幸・幸村親子には同姓同名の家臣がいたという。
その父は真田家の重臣となった筧十兵衛という人物で、元々身分の低い足軽であったが、真田親子に仕えて取り立てられ、その息子の筧十蔵がモデルになったのではないかと考えられている。
おわりに
真田家の家臣に、同姓同名な人物がいたことは確かなようだ。
その人物が槍や鎖鎌の名手であったかは不明だが、十勇士は全くゼロからの創作というわけではなく、それなりにモデルとなる人物がいた可能性は高そうである。
歴史の裏に隠れた彼らの実像は、今後も我々の探求心をくすぐり続けるだろう。
参考 : 『真田三代記』他
今は平安やブギウギが主流の中でいつもではないが、まさかの忍者この観点が好きです、