近年、晩婚化が進んだことで、40歳、50歳を超えて結婚する人も珍しくなくなってきました。
最近では「シニア婚活」なる言葉も誕生し、60代70代向けの婚活パーティなども開催されています。
さて、「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」などの句で有名な、江戸時代に活躍した俳人・小林一茶(こばやしいっさ)。
彼も、かなりの晩婚だったことをご存じでしょうか。
今回の記事では「一茶の夫婦生活」についてのエピソードについて紹介していきます。
目次
年齢なんて関係ない!驚異的な体力で夫婦生活を行った一茶
一茶はなんと52歳という年齢で、初めて結婚しました。
そして驚くべきことにお相手の女性、菊は28歳。年齢差は24歳です。
親子ほど年が離れており、相当な年の差婚でした。
そんな若い奥さんと結婚した一茶は、なんと日記に夫婦生活の詳細を記述していたのです。
例えば日記の中には「三交」という言葉が出てきますが、これは奥さんと夜の営みを3回交わしたということです。
一茶は50歳を超えていたにもかかわらず、かなり頻繁に夫婦生活を行っており、中には「五交」と書かれた日もありました。
「俳人」という職業のイメージとは異なった、驚異的な体力を持っていたようです。
「子供が欲しい」という切実な思いから夫婦生活を要求?
一茶は、単純に体力任せに夫婦生活を行っていたわけではなかったようです。
あるときは、精力剤になるとされた薬草を山に摂りに行くなど、涙ぐましい努力もしていたようです。
これだけの努力をしてまで頻繁に夫婦生活を行っていたのは「早く子供が欲しかった」というのが理由の一つです。
一茶は幼少期に実母を亡くし、その後やってきた継母にひどい扱いをされました。
その後、継母と実父との間に弟が生まれると、酷い扱いはさらにエスカレートします。
幼い一茶の身体には、いつもどこかに杖で殴られた後が残っていたと伝えられています。
一茶は父親が亡くなった後、継母や弟と泥沼の遺産争いを繰り広げました。その期間はなんと驚愕の10年超。
長きにわたった相続争いの末、ようやく家を継いだのです。
晩年になってようやく家を継げたこと、そして52歳という自身の年齢を考えて、一日も早く跡継ぎを作りたいという焦りがあったのでしょう。
単に行為自体も大好きだった
しかし一茶の日記からは、単純に跡継ぎがほしいためだけに夫婦生活を行っていたわけでもなさそうな記録も見られます。
一茶は、菊の妊娠中でも夫婦生活を行っていたのです。
妊娠中の行為は、もちろん子づくりのためではありません。
菊は身重の身体で行為を行うことに後ろめたさを感じつつも、一茶の要求を受け入れていたようです。
実は一茶は、若い頃からお金に困っていたにもかかわらず、道端の客を引く遊女の一種「夜鷹」の元に足しげく通っていました。
夜鷹は最下層のもぐりの遊女で、お客も下級労働者ばかりでした。
衛生環境も劣悪で梅毒などの病気持ちも多かったそうです。
「さらぬだに 月に立待 惣嫁哉(たちまつそうかかな)」
この句は、一茶が路上で客引きをする夜鷹に親しみを込めて、美しく詠い上げたものです。
遊女の元に足しげく通い、愛情を込めて句を読むほどに女性が好きだったのでしょう。
子供が次々と生まれるも夭逝…最愛の妻も亡くした後に転機が
そんな努力の甲斐もあって、一茶と菊の間には4人の子供が次々と生まれました。
ところが子供たちはみな2歳未満で夭逝。さらに追い打ちをかけるように妻・菊も37歳という若さでこの世を去ってしまいます。
子供たちが亡くなった原因は、一茶からうつされた梅毒の可能性が高いとされ、菊は農作業や育児の過労、一茶の性豪ぶりに衰弱して亡くなったとされています。
さらに一茶自身も脳卒中を起こしており、歩行障害と言語障害を患っていました。
妻、そして子供たちを亡くし、自身も障害を患った一茶は、悲しみのどん底へと突き落とされたのでした。
しかし一茶が62歳になった頃、また人生の転機が訪れます。
一茶はめげずに嫁探しを依頼しており、雪という38歳の女性と再婚したのです。
しかし雪とは相性が悪かったのか、2ヶ月足らずでスピード離婚してしまいます。
しかしさらにその2年後、なんと32歳の女性・やをと3度目の結婚をしました。
3番目の妻・やをとは相性が良かったのか、一緒に過ごすうちに妊娠が判明。
しかし一茶は、自身の子どもを見ることなく、65歳で他界してしまいました。
次々と自分の子供を亡くした一茶でしたが、3番目の妻・やをとの間に生まれた娘・やたは無事に成長し、結婚して子宝にも恵まれたそうです。
こうして一茶の家系は脈々と受け継がれ、現在でも一茶の出身である信州には子孫の方が暮らしておられるようです。
おわりに
頻繁に夫婦生活を行ったり、晩婚でなお3回も結婚したり…と教科書で学んだ俳人・小林一茶には、別の顔がありました。
俳人である前に、ひとりの男であったということでしょうか。
そんな人間くささや親しみやすさも、きっと作風に現れているのでしょう。
参考 :
性からよむ江戸時代――生活の現場から 著:沢山 美果子
先生の雑談 日本史の時間 編集:雑談教育委員会
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