べらぼう~蔦重栄華之夢噺

『べらぼう』天明の打ちこわし勃発「米がないなら犬を食え!」という役人の暴言は本当か?

NHK大河「べらぼう」第32回『新之助の義』では、とうとう「天明の打ちこわし」が始まりました。

大噴火・物価高・米不足・大洪水など次々と続く困難で、貧困に喘ぐ民衆の怒りは爆発寸前まで膨れ上がっていました。
そして、奉行所で配るはずだった配給米がもらえないことで怒りはとうとう爆発。
詰め寄る民衆と、それを抑えようとする役人との間に小競り合いが始まります。

そんな時、一人の町人が突然叫び始めました。

「米がないなら犬を食え?」「犬を食えとはまことか?まことにそんなこと言われたのか?」。「犬をつかまえて食えと?食えとぉ~?!」。

その男は、奉行所の役人が一番貧しい身なりをした男に「犬を食え」と言ったと大声で主張します。
かなり芝居がかった態度なのですが、興奮状態にある民衆はその言葉の真偽のほども確かめることなく、煽りに乗ってしまいます。

その町人は、一橋治済(生田斗真)の傀儡として暗躍する謎の人物。

さまざまな場面でデマをばらまき、人々の心に猜疑心をかき立て、江戸市中に「田沼政権憎し」の空気を広げるために暗躍する男ですが、今回は「米がないなら犬を食え」という噂で民衆を煽っていました。

このセリフについては、実際に「奉行が町人にそうした暴言を吐いた」と伝わる説も存在します。

画像:男と犬 葛飾北斎 public domain

風評だった?「貧困層に対する権力者の暴言」

「持てるもの」である権力者が、「持たざるもの」である民衆に暴言を吐いたとされる逸話は多く残されています。

有名なのは「貧乏人は麦を食え」発言の池田勇人。

昭和25年(1950)、第三次吉田内閣時に、当時大蔵大臣だった池田勇人が「米不足」の現状についてそう言ったと伝えられます。

実際の発言は「私は所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食べ、所得の多い人は米を食べるという、経済の原則に沿った方向へ持っていきたい」という趣旨だったとされます。
ところが、マスコミが「貧乏人は麦を食え」という刺激的な見出しで報じたことで、世論の反発を招き、いわば大炎上となり、池田は翌日辞任に追い込まれました。

画像 : フランス王妃マリー・アントワネット public domain

また、フランス革命前の食糧難の時期に広まった「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というマリー・アントワネットの言葉も有名です。

ところが、この台詞はルソーの『告白』に登場する別の高貴な女性の発言が元とされ、アントワネットがフランスに嫁ぐ以前から存在していました。さらに、ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の言葉だったという説もあります。

いずれにせよ、彼女自身の言葉である可能性は低いと考えられています。

とかく、真実は操作されたり捏造されたりしがちですが、「米がないなら犬を食え」という発言については、実際にはどうだったのでしょうか。

「犬を食え」が、米屋の打ちこわしの引き金に?

天明3年から7年(1783〜1787年)にかけて深刻な米不足が発生しました。

江戸では町奉行たちがさまざまな対策を打ち出したものの、米商人と幕府役人との癒着や度重なる不作などが重なり、状況は一向に改善しませんでした。

その最中、ドラマ「べらぼう」にも描かれているように、米の配給を求めて奉行所に押しかけた町人たちに応対していた北町奉行・曲淵景漸(まがりぶち かげつぐ)が激高し、

「昔は米が払底した時は犬を食った。犬1匹なら7貫文程度で買える。米がないなら犬を食え」
「町人は米を食わずに麦を食え」
「前の飢饉では猫1匹が3匁したが、今回はそれほどでもない」

と暴言を吐いたと伝わる説があります。

この発言が町民の怒りを一気に引き起こし、米問屋を襲撃する大規模な打ちこわしへと発展。

市中が一時、無政府状態に陥ったとされています。

画像:黄表紙『新建哉亀蔵』に登場する天明の打ちこわしの様子 蘭徳 画 国立国会図書館,デジタルコレクション

実際は根拠のない風説だった可能性

ところが近年の研究では、この発言を裏付ける史料は見つかっておらず、「奉行が犬を食えと言った」という話は、怒りを募らせた民衆の間で自然発生的に広まった風説だった可能性が高いとされています。

当時、北町奉行の曲淵景漸は、打ちこわしへの対応に慎重で、奉行所としても動きが遅れがちでした。
そのため寺社奉行や勘定奉行から「町奉行所は現場に出向かないのか」と批判され、「この程度のことで現場には行かない」と答えたとも伝わります。

これに対し、勘定奉行が「火事でさえ現場に駆けつけるのに、打ちこわしの最中に出向かないのはどういうことか」と強く批判したため、ようやく重い腰を上げたとされます。

しかし、景漸ら町奉行が現場に赴いたときには、すでに打ちこわし勢が興奮状態にあり、

「普段は奉行を敬っているが、こうなれば何を恐れることがあろうか!近づけば打ち殺してやるぞ」
「町の皆は貧困に苦しんでいるのに、公儀からは一切援助がなく、見殺しにされている。まことに不仁な御政道ではないか」

といった罵声を浴びせられました。

そのため、町奉行は強引な鎮圧を避け、暴徒を一斉に捕縛することはせず、どさくさに紛れて盗みを働く者だけを捕らえたそうです。

結局、町奉行所だけでは収拾がつかず、幕府はついに火付盗賊改方の頭取であった2代目・長谷川平蔵(宣雄)らに市中の取り締まりを命じました。

騒動を起こす者は捕縛し、状況によっては抵抗する者を斬り捨てても構わない、とまで通達されたといいます。

しかし、実際に打ちこわし勢を捕らえたのは十手組のうちわずか2組にすぎず、残る8組は市中を巡回しているだけだったそうです。

画像:飢民を救済・収容するお救い小屋。渡邊華山 画『荒歳流民救恤圖』前橋積善會 1899 国立国会図書館デジタルコレクション

「暴言奉行」は、実は名奉行だった

曲淵景漸(まがりぶち かげつぐ)という人物は、享保10年(1725年)、曲淵景衡(かげひら)の子として、旗本の家に誕生しました。

41歳で大坂西町奉行に抜擢、甲斐守に叙任され、明和6年(1769年)に江戸北町奉行に就任し、以後、18年間にわたって奉行職を務めて江戸の統治に尽力しました。町奉行としては長い在任期間でした。

どんな人物だったのかというと、「べらぼう」でも描かれていた、佐野政言による田沼意知刃傷事件を裁定し、その際に佐野を取り押さえなかった若年寄や目付などに出仕停止などの処分を下しました。
また、経済に精通し、大坂から江戸への米穀回送などに尽力したそうです。

さらに、明和8年(1771年)、「処刑された罪人の腑分け(司法解剖)をするので見たければ来ること」という通知を江戸の医師たちに伝令、これにより「解体新書」などで名高い杉田玄白らは、刑死人の内臓を初めて見学できました。

玄白らは、ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの解剖学書をオランダ語に翻訳した『ターヘル・アナトミア』の解剖図と比較し、「自国の医学がいかに遅れているか」を痛感したといいます。

こうした機会を与えた景漸は、先見の明と柔軟な発想を備えた人物だったといえるでしょう。

実際、景漸は、勘定奉行・南町奉行を務めた根岸鎮衛(ねぎし しずもり / やすもり)とともに、江戸庶民の間でも人気が高かったそうです。

打ちこわしの現場への出動が遅れたのも、推測ですが、貧困に苦しむ民衆の中からできる限り逮捕者を出したくなかったのかもしれません。

前述した「盗みを働く者だけを捕らえた」という対応も、単に“暴徒を抑えられなかった”からではなく、景漸なりの配慮だった可能性があります。

降格後も幕府で活躍した曲淵景漸

画像:奉行の錦絵 歌川国貞(3代目豊国)public domain

景漸は降格こそされたものの、その業績と能力は高く評価されており、田沼政権崩壊後には老中・松平定信から勘定奉行に抜擢されました。

寛政の改革では得意とする経済・法律分野で活躍し、財政難に陥った旗本や御家人を救済するための武士救済法令である棄捐令(きえんれい)の策定にも関与しています。

松平定信が寛政5年(1793年)に老中を退いた後も勘定奉行を務め続け、72歳で引退しました。

怒りに火を付ける強烈な言葉の拡散力

江戸の名奉行として名を残しそうな功績はあるのに「犬を食え」だけが一人歩きしてしまった、曲淵景漸。

現代では「真偽不詳の風説」と考えられていますが、誰が最初に言い出したのかは不明です。

庶民の怒りが生んだ言葉だったのか、それとも『べらぼう』のドラマで描かれるような政争による陰謀だったのかもしれません。

このように言葉が一人歩きし、人々の記憶に刻まれていく過程は歴史の面白さであり、同時に怖さでもあるともいえるでしょう。

参考:
丹野顯『江戸の名奉行 43人の実録列伝』 (文春文庫)
丹野顯『江戸の名奉行』(新人物往来社)
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

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桃配伝子

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アパレルのデザイナー・デザイン事務所を経てフリーランスとして独立。旅行・歴史・神社仏閣・民間伝承&風俗・ファッション・料理・アウトドアなどの記事を書いているライターです。
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