宗教

空海はなぜ高野山を選んだのか?「秘められた錬金術の戦略」

画像:絹本著色弘法大師像 public domain

真言密教の根本道場として、弘法大師・空海が高野山を開いたのは西暦816年のことでした。

以来1200年以上、この霊山は日本仏教の聖地として多くの信仰を集めています。

空海が高野山を選んだ理由としては、「山岳信仰に適した地形」や「都からほどよく離れた位置」など、密教経典に説かれる理想の修行地である「深山の平地」の条件を備えていたことによるとされています。

また、空海自身も少年期からこの地に親しんでおり、地形を熟知したうえで修行場として最もふさわしい場所と考えたようです。

しかし、それだけでは説明できない謎がいくつも残っています。

なぜ唐での留学をわずか2年で切り上げて、空海は帰国したのか?

また、なぜ開創にあたり地元の水銀採掘集団である丹生(にう)一族の神を、これほどまでに重視したのか?

筆者も昨年、京都から車で高野山を訪れましたが、実際に走ってみるとその距離は想像以上に遠く、和歌山県に入ってからもいくつもの峠を越えなければなりません。

これが徒歩の時代だったことを思うと、「なぜ空海は都からこれほど離れた山奥を選んだのか」という疑問が、まさに体感として湧き上がってくるのです。

都から適度な距離という説明だけでは、比叡山のような立地のほうがはるかに合理的に思えます。

空海は高野山にどのような価値を見出していたのでしょうか。

今回は複数の文献から、空海が高野山を選んだ本当の理由を探っていきたいと思います。

中国(唐)で空海が目にした「錬丹術」の熱狂

画像 : 八仙渡海図 public domain

当時の唐では道教思想の影響を受け、皇帝自らが不老長生(不老不死)を強く願っていました。

その願いを叶える秘術として、宮廷や知識人の間で熱心に取り組まれていたのが「錬丹術」です。

西洋の錬金術とも通じますが、その主な目的は不老不死の霊薬「金丹」を創り出すことにありました。

この金丹の主原料こそ、水銀とその鉱物である辰砂(しんしゃ、朱砂)だったのです。

画像 : 辰砂 JJ Harrison CC BY-SA 3.0

辰砂の鮮やかな赤色は、生命の象徴と見なされていました。

加熱すると液体金属である水銀に変化し、さらに元々の辰砂に似た赤い物質(酸化水銀)に戻る様子は、古代の人々に「死と再生」として映ったのです。

そのため辰砂は、顔料や薬品だけではなく、霊薬として重要な資源と見なされていました。

しかし実態は、ヒ素や水銀を含む猛毒の化合物にほかなりません。

実際に『旧唐書』や『新唐書』には、不老不死を夢見た皇帝たちが丹薬の毒によって次々と命を落としていった悲劇が記録されています。

憲宗皇帝(在位805-820年)、穆宗皇帝(在位820-824年)、武宗皇帝(在位840-846年)など、複数の皇帝が錬丹術の犠牲となっていました。

こうした熱狂の渦中に、空海は置かれていたのです。

そして注目すべきは、空海が唐に滞在した時間の異例な短さです。

当時の遣唐使における長期留学生には、原則として20年もの滞在が課せられていました。
ところが空海はその規則を破り、わずか2年で日本へと帰国しています。

公式な記録では、師である青龍寺の恵果和尚から密教のすべてを授けられ、学びを完了したためとされており、もちろん彼の非凡な才能を示すものでもあります。

しかし、別の可能性を考えてみることはできないでしょうか。

それは唐で最先端の科学技術(とくに錬丹術の知識)に触れた空海が、日本の豊富な資源と結び付ける壮大な構想を思いつき、早期の帰国を強く望んだという仮説です。

唐の皇帝すら熱狂させる霊薬の原料がもし日本で手に入るならば、今後の国家運営をも左右しかねない莫大な価値を持つことになります。

通説では、恵果和尚が空海に密教の奥義を授けた際「早く帰国して密教を広めよ」と告げたとされています。

この言葉を宗教的使命のメッセージとしてだけでなく、空海の壮大な構想を見抜いた師の後押しと解釈することもできなくはありません。

高野山という「完璧すぎる」立地条件とは?

画像:高野山 壇上伽藍 草の実堂撮影

空海が唐で得た知識を念頭に置いて高野山の立地を見ると、驚くべき事実が浮かび上がります。

そこは宗教的な理想郷であると同時に、戦略資源の要衝でもあったのかもしれません。

古来より高野山の周辺地域(とくに紀伊半島)は、水銀(辰砂)の一大産地でした。

全国に点在する「丹生(にう)」という地名の多くが水銀の産地と関連していることは、もはや定説となっています。

そして高野山の周辺を本拠地としていたのが、水銀の採掘と精錬技術を独占的に掌握していた「丹生一族」です。

彼らは単なる土着の豪族ではなく、日本の黎明期から鉱物資源と深く関わってきた専門的な技術者集団であったと考えられます。

古墳の壁画に使われる朱(辰砂の粉末)の供給から、薬品として利用する水銀の精製まで、丹生一族の技術は広範囲に及んでいました。

高野山を開創するにあたって空海がまず取り組んだことが、この土地の地主神である丹生都比売(にうつひめ)を手厚く祀り、高野山全体の鎮守神としたことでした。

画像 : 丹生都比売神社の由緒板 草の実堂撮影

これは神道との融和策と見ることもできますが、極めて現実的な戦略的意図が隠されていた可能性もあります。

つまり、水銀の採掘・精錬技術を独占する丹生一族を、宗教的な権威のもとに取り込み、その技術と利権を確保することです。

現代で例えるならば、最先端技術企業と国家が戦略提携を結ぶような高度な政治判断だった、とも考えられます。

実際に丹生都比売神社は、高野山の北西(直線で約8kmほど)に位置し、今も高野山の総鎮守として篤く信仰されています。

画像 : 丹生都比売神社の案内板 草の実堂撮影

高野山への表参道である町石道は、丹生都比売神社を経由するように設計されており、参詣者は必ず丹生都比売神社に立ち寄ることになります。

そのため宗教的配慮だけではなく、資源ネットワークの中心点としての機能を持たせる、戦略的な意図があったと考えることもできるのです。

画像:丹生都比売神社(境内)草の実堂撮影

高野山の開創にまつわる有名な伝承も、今回の視点から見ると新たな意味を帯びてきます。

『金剛峯寺建立修行縁起』(安和元年・968年成立)によれば、空海が道場にふさわしい場所を探していると、黒と白の犬を連れた一人の狩人に出会います。この狩人こそ丹生都比売神の御子である狩場明神(高野御子大神)の化身でした。犬に導かれるまま山中へ分け入った空海は、ついに理想の地である高野山を見出し、神々から土地を譲り受けたとされています。

この物語(史料)は神話として理解されていますが、別の真実が潜んでいるのかもしれません。

この史料が編纂されたのは、空海入滅の133年後でした。
時代は離れていますが『空海僧都伝』以来の記録を継承しており、重要な歴史的背景を反映していると考えられています

神の化身である狩人、道案内をする犬。
この神話的なモチーフは「鉱脈の発見」と「採掘権の獲得」という現実の出来事を物語として昇華させたとも解釈できます。

つまり、狩人は丹生一族の代表者として、犬は鉱脈を探す技術者の象徴として、それぞれ重要な役割を担っていたとも考えられるのです。

神話として語られてきた物語ですが、現代の宗教史研究では丹生氏と真言密教の関係性を示す重要な史料と見なされています。

仮説の限界と新たな視点

画像 : 高野山の金堂 草の実堂撮影

ここまで展開してきた「錬金術師・空海」という仮説には、もちろん限界もあります。

まず現代の地質調査では、高野山の「山上」から直接的な水銀鉱脈は発見されていないという事実が挙げられます。
地学の専門家による土壌分析でも、辰砂が豊富に含まれているという報告はありません。

この事実に従えば、空海が水銀採掘を目的として高野山を選んだと考えるのは難しいでしょう。

しかし、二つの可能性が考えられます。

まず古代からの長年の採掘によって、資源が枯渇してしまったという可能性です。
日本にあった多くの水銀鉱山は明治時代まで採掘が続けられ、このあと閉山しています。

1000年以上にわたる採掘の歴史があれば、表層の鉱脈が消失していても不思議ではありません。

次に、空海の狙いは高野山の山上ではなく、日本最大の断層帯である「中央構造線」沿いに広がる、より広範な鉱床ネットワークにあったのではないか、という可能性です。

画像:日本列島を横断する中央構造線(赤線) public domain

実際のところ中央構造線上には、古代より辰砂の有力な産地が数多く点在していることが地質学的に知られています。

奈良県の宇陀、三重県の丹生、徳島県の水井など、中央構造線に沿って「丹生」や「水銀」に関連する地名が連なっているのです。

こうした広域的な資源ネットワークを掌握するために、空海は高野山を「司令塔」として位置づけ、丹生一族との連携拠点としようとしたという仮説もあります。

高野山は中央構造線のほぼ中央に位置し、東西に広がる鉱脈ネットワークを管理する地理的な要衝となります。

このように考えるなら、高野山そのものに大規模な鉱脈が存在しなくとも、地政学的には十分な戦略的価値を持っていたといえるでしょう。

天才・空海が見せた業績の数々

画像 : 高野山の奥之院入口 草の実堂撮影

空海が高野山を選んだ背景には、宗教家としての顔だけではなく、最先端の科学に通じ、地政学を見据えた戦略家としての一面があったのかもしれません。

これまで見てきたように「錬金術師」としての空海という視点は、あくまで一つの仮説であり、直接的な物証に乏しいのが事実です。

しかし空海は、唐の最先端科学を学び、日本の地理と資源を熟知し、技術者集団との政治的連携までをも視野に入れた、稀代の戦略家であった可能性を秘めているのです。

土木技術にも優れた空海は満濃池の改修を成功させ、庶民教育のための綜芸種智院を設立し、さらには日本初の辞書『篆隷万象名義』を編纂するなど、その活動は宗教の枠を大きく超えています。

こうした多面的な業績を見れば、空海が「資源戦略」という視点を持っていたとしても決して不自然ではないでしょう。

真言密教の根本道場として、現在に至るまで多くの信仰を集める高野山。

その静謐な空気の下に、もう一つの物語が眠っているのかもしれません。

参考文献
佐藤任(1991)『空海と錬金術』東京書籍
松田壽男 (2005)『古代の朱』筑摩書房
松田壽男(1970) 『丹生の研究:歴史地理学から見た日本の水銀』早稲田大学出版部
文:撮影 / 村上俊樹 草の実堂編集部

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村上俊樹

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