藤原道長が権力の絶頂に昇ったのは、娘を次々と入内させ、皇室の外戚となったから……だけではなく、武力による裏づけもありました。
当時の道長には有力な武士たちが多く仕えており、特に武勇すぐれた者たちは後に「道長四天王」と呼ばれます。
四天王の顔ぶれは、藤原保昌(やすまさ)・源頼信(よりのぶ)・平維衡(これひら)・平致頼(むねより)の四名。
頼信の子孫には、鎌倉幕府を開いた源頼朝、維衡の子孫には武家政権の先駆けとなった平清盛がいます。
今回は、平致頼の息子である平致経(むねつね)を紹介。父親ゆずりの武勇を示した生涯をたどってみましょう。
人呼んで「大箭左衛門」
致経 治承三七廿八出家同八一卒四十二才
宇大箭 左衛門大尉 詞花作者
※『尊卑分脈』第十六巻 平氏より【意訳】平致経は、治承3年(1179年)7月28日に出家し、同年8月1日に42歳で世を去った。
大箭(おおや)と称し、左衛門大尉(さゑもんのだいじょう)を務める。
また、和歌にも嗜みがあり、勅撰和歌集『詞花和歌集』作者の一人であった(詠んだ和歌が入選)。
……これは『尊卑分脈』の記述ですが、まさかのツッコミ待ちでしょうか。
治承3年(1179年)と言えば、道長や致頼たちが生きた時代からゆうに百年以上は過ぎています。
これは治安(じあん/ちあん。1021~1024年)の間違いと考えるのが自然でしょう。
つまり、平致経は治安3年(1023年)8月1日に42歳で世を去ったようです。
没年をさかのぼると、平致経は天元5年(982年)生まれと考えられますね。
また「宇大箭」は「号大箭(おおやとごうする)」の誤記でしょう。
大箭とは大矢とも書き、並外れて大きな弓矢を操ることができる腕力を恐れられた二つ名です。
左衛門大尉とは、御所の門を護衛する衛門府の三等官(武官)でした。
人呼んで大箭左衛門(おおやのさゑもん)、平致経は、父に恥じぬ武勇をもって京都洛中に名を轟かせます
ちなみに平致経の兄弟は、それぞれ平公親(きみちか。内匠允)・平公致(きみむね)などがいました。
最強の護衛
平致経(むねつね)の武勇を示すエピソードの一つが、『今昔物語集』に伝わっています。
藤原頼通(道長嫡男)に仕えていた致経は、ある晩に明尊僧都(みょうそんそうず)を、三井寺(園城寺。滋賀県大津市)まで護衛するよう命じられました。
当時の夜道は何が襲ってくるか判らぬ中、致経はこともなげにこれを快諾します。
しかし、送られる明尊僧都は不安で仕方ありません。
と言うのも、致経に従うのは郎党が一人きり、つまりたった二人なのです。
しかも徒歩で、騎馬の明尊僧都を護り切れるものでしょうか。
明尊「あんな護衛で大丈夫ですか?」
頼通「ご安心を。あぁ見えて、実に頼もしい連中ですから」
果たして出発してみると、道中次々と黒ずくめの男たちが現れました。
彼らは無言のまま付き従い、気づくと30人以上の大集団となっていたのです。
実は、彼らはみんな致経の郎党たちでした。日頃からよほど訓練を積み、信頼関係を築いていなければできない芸当です。
そして護衛任務が終わると、声もなく次々と去っていき、最後は元の二人に戻ったのです。
げにあさましきしわざかな (本当に奇妙なことだ。何て恐ろしい連中だ)
無事に帰り着いた明尊は、そう舌を巻いたのでした。
郎党たちをここまで心服させ、高い技量と統率を保つ器量は尋常ではありません。
恐らく父の代から鍛え上げ、世代交代していたのでしょう。
殺人を犯して逃亡
かくして大いに恐れられた大箭左衛門。
しかし、治安元年(1021年)5月、弟の平公親と共に、東宮(皇太子)に仕える史生・安行(やすゆき。姓は不詳)と、滝口武者の信濃介(しなののすけ。姓名不詳)を殺害してしまったのです。
史生(ししょう)とは、官庁に仕える書記官。滝口武者(たきぐちのむしゃ)とは、御所の滝口に控え、御所を護衛する武士でした。
犯行の動機は、東宮亮・藤原惟憲(これのり)の暗殺でした。しかし彼ら(安行と信濃介)に阻まれて、仕損じる結果となります。
致経と公親は逃亡し、横川の静覚法師(じょうがく)に匿われていました。
しかし、同年8月に捕縛されてしまったのです。二人を捕らえたのは同族ながら父の旧敵である平維衡(これひら)の子・平正輔(まさすけ)。親子二代で敵同士とは、実に浅からぬ因縁と言えるでしょう。
これが直接の原因かはハッキリしませんが、後に致経は「前(さきの)左衛門尉」と記されており、解官されたことが判ります。
そして致経は、治安3年(1023年)7月28日に出家、同年8月1日に42歳で世を去ったのでした。
勅撰歌人でもあった平致経
とかく荒くれ者なイメージの強い致経ですが、和歌に秀でた文武両道な一面もあるようです。
その和歌が、勅撰和歌集『詞花和歌集』に一首採録され、現代に伝わっています。
君ひかず なりなましかば あやめ草 いかなるねをか けふはかけまし
※『詞花和歌集』
【意訳】もしもあなたが菖蒲草(あやめぐさ)を引き抜いて来なければ、端午の節句で軒先に何をかければ(飾れば)いいのでしょうか。
【意訳】もしご主君の引き立てがなければ、今日の私はなかったでしょう。
この歌から、自分を引き立ててくれた藤原道長・頼通父子に対する恩義を、深く感じていることがよく解りますね。
平致経・基本データ
生没:天元5年(982年)生~治安3年(1023年)8月1日没(※『尊卑分脈』より)
両親:平致頼/母親不詳
兄弟:平公親・平公致
主君:藤原道長・藤原頼通
官職:左衛門大尉
別名:大箭(大矢)、大箭左衛門
妻妾:不詳
子女:平致道(むねみち)・賀茂致房(かもの むねふさ)・平経家(つねいえ)など
終わりに
今回は藤原頼通に仕えた武士・平致経の生涯をたどってきました。
父親の平致頼は大河ドラマに登場しますが、父子二代の出演は実現するでしょうか。
もし登場するなら、誰がキャスティングされるかも楽しみですね!
※参考文献:
菅野覚明『武士道の逆襲』講談社現代新書、2004年10月
髙橋昌明『伊勢平氏の興隆-清盛以前』文理閣、2004年11月
福永武彦 訳『今昔物語集』ちくま文庫、1991年10月
藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第15‐18巻』国立国会図書館デジタルコレクション
文 / 角田晶生(つのだ あきお)
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