室町時代。一つの舞台芸術を大成した天才がいた。世阿弥元清(ぜあみもときよ)である。
「秘すれば花」で知られる風姿花伝など芸能に関する優れた著述を遺し、現在にも受け継がれる能に人生を賭けた世阿弥。七十幾年という生涯の一端を見ていこう。
父・観阿弥と歩んだ華々しい時代
世阿弥の出世年には諸説あるものの、概ね1360年頃と推測されている。1358年には足利尊氏が没しており、足利義満の治世へ移り変わろうとしていた頃だ。
世阿弥の父・観阿弥は、大和猿楽で名を馳せ、結崎座(現在の観世流)を率いていた。この優れた父の下で鍛錬した世阿弥は、わずか十二歳で義満公の寵愛を受けるほどの才能を見せる。
摂政・関白の地位にあった二条良基すら、書状において、蹴鞠や連歌にも長けた世阿弥を「ただものにあらず」と称し、類まれなる才能と美貌に惚れ込んでいる様子がうかがえる。
世阿弥が確立した夢幻能
父・観阿弥亡き後も、上流社会での世阿弥人気は衰えず、勧進猿楽など貴族主催の催しで演能したという記録は多い。
さらに、世阿弥は能作者としても秀でていた。
霊的な存在を主人公とする「夢幻能」は、世阿弥が完成させた能の一つの形態だ。
「井筒」や「融」などがその代表作で、この世に未練を持つ霊が、旅の僧の夢に現れ、生前の思い出や悲しみを語って供養を願い、去っていくという流れが多い。
この世とあの世が交錯する幻想的な世界、人間の感情が複雑に混ざり合う展開は650年以上経った今も色褪せない。
世阿弥が創作した能は50曲以上あり、現在でも当時とほぼ同じ詞章で演じられている。
火種となった後継者問題
世阿弥には四郎という弟がいた。世阿弥は、この弟の子である元重を後継者にしようと養子に迎えたが、その後実子を授かったため、元重を後継者から外したと言われている。
世阿弥は結局、長男元雅と次男元能という二人の子息、一人の子女に恵まれたようだ。
養子であった元重は世阿弥の元を去り、やがて音阿弥と名乗って自らの地盤を固めていく。
しかし、この音阿弥の存在が、その後の世阿弥の人生に大きな影を落とすことになるのだった。
義満没後の冷遇と迫害
1408年に足利義満が没すると、その嫡男義持が実権を握った。
この義持の時代、世阿弥の子元雅も優れた能楽者として成長しており、醍醐寺清滝宮楽頭に任じられるなど、大きな役割を果たしている。
しかし、義持は田楽の増阿弥を贔屓としていたため、世阿弥に義満時代ほどの隆盛はなかった。
やがて義持が1428年に急死すると、将軍の地位に就いたのが義満の第三子・義教である。
義教は出家の身であったが、義持の死期が間近になったころ後継者として担ぎ上げられた。
史実によれば、この義教公は行動力の旺盛な人物であったと語られるが、反面、独断に陥ることが多く、自身の権威を敬わない者に対しては非常に厳しく当たったという。
かねてより猿楽に興味を持っており、たびたび義満の猿楽見物にも同席していたというが、義教が贔屓にしていたのは世阿弥ではなく、音阿弥つまり世阿弥が養子にしていた元重であった。
音阿弥を後継から外した一件もあってか、義教は世阿弥父子を冷遇する。
公の場から追われた世阿弥父子
年を重ね、世阿弥は文化人として貴族や諸大名からの崇敬を集めていた。しかし、将軍義教は、贔屓にしている音阿弥よりも世阿弥父子が評価されることを極端に嫌った。
やがて、元雅が担っていた清滝宮楽頭職は音阿弥へと替えられ、仙洞御所での世阿弥の演能も禁止されるなど、義教による世阿弥父子への迫害は深刻になっていく。
さらに1432年には、世阿弥の後継者元雅が伊勢で急死。
原因は明らかになっていないが、政争に巻き込まれて殺害されたとも伝わっており、義教公による迫害と無縁ではなさそうだ。
ちなみにその後、音阿弥は元雅に代わり、四代目観世大夫の地位に就いている。
能楽の機会を失い、さらに後継者として育ててきた長男を亡くした世阿弥の悲嘆は想像に難くない。
さらなる迫害・佐渡への配流
元雅の死から二年後、失意の世阿弥を更に追い詰める出来事が起きる。
義教より佐渡への配流を言い渡されたのだ。
当時の佐渡と言えば、謀反や殺人を犯した罪人が流される孤島。
配流の原因はわかっていないが、世阿弥が保有していた能の秘伝書を音阿弥が欲しがったたものの、世阿弥が一見すら許さなかったことが義教の怒りに触れたとも言われている。
佐渡配流から後の世阿弥の様子を知る手掛かりは少ない。七十過ぎの老境に至った世阿弥が佐渡の地で何を思っていたのか。
彼が創り上げた夢幻能の世界。そこに登場する非運の霊魂に世阿弥自身を見るようである。
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