南北朝時代に新たに作った武家政権である室町幕府とそれを創設した足利尊氏。
尊氏には最も重宝していた人物がいた。それは実弟の足利直義(あしかがただよし)である。
直義は感情で動いてしまう尊氏を本来持つ冷静沈着さで上手く軌道修正し、尊氏を導いてきた弟であり、尊氏と共に室町幕府を二頭政治でけん引してきた。
そんな直義は一体どのような人生を歩んできたのだろうか。今回は直義の生涯に注目して後を追っていきたいと思う。
鎌倉幕府討幕に参戦
足利直義は徳治元年(1306)に産まれた。父は足利貞氏で母は上杉清子。そして兄には一歳違いの同母兄の尊氏と異母兄の高義がいる。尊氏とは一歳違いとのこともあり、非常に仲が良く争うことは一切なかった。
元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕の挙兵を挙げ、その処罰として配流された隠岐島を脱出し、二度目の鎌倉幕府討幕の挙兵を挙げた。情勢は幕府軍よりも討幕軍の方が有利に傾き始めていることに気が付いた尊氏と直義は幕府を裏切り討幕軍へ味方しようとするが、幕府も先手を打って人質と起請文(神仏に誓う文書)の提出を求められ、尊氏に迷いが生じてしまう。
しかし、直義が励ましたことによって一旦は幕府の要求を受け、その後に討幕軍に味方し京都を攻め、当時の六波羅探題(京都の御家人を統治する役職)だった北条仲時を京都から追い出し、京都を制圧した。
足利直義 鎌倉での政治
鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による建武の新政の時代になると、直義は関東統治機関である鎌倉将軍府の将軍成良親王の執権として政治に関わった。当時はまだ成良親王は幼いため、実権は直義が握っていた。
建武2年(1335)には、鎌倉幕府執権の北条高時の遺児、時行が鎌倉幕府再興の為に反乱を起こした(中先代の乱)。直義は時行討伐の為に迎え撃つが敗れてしまう。この時、直義は成良親王と尊氏の子である義詮と鎌倉から逃げている。
そして、鎌倉で幽閉されていた護良親王を家臣の淵辺義博に殺害させている。これは、征夷大将軍だった護良親王から鎌倉幕府が再興されることを恐れての行動だったと言われている。
直義が劣勢と知ると否や尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに救援に向かった。2人は合流すると攻勢に転じて反乱軍から鎌倉を奪還した。鎌倉奪還後、尊氏は京都には戻らず鎌倉にとどまった。これは直義の意向が強く反映されている。
兄と共に幕府創設
京都に戻らない尊氏に後醍醐天皇は新田義貞を総大将にした追討軍を鎌倉へ派遣した。
この時、尊氏は罪の意識から出家していたので直義が迎撃に当たった。しかし、直義が敗れてしまうと危機感を感じた尊氏は出陣し直義と共に追討軍を破り、京都へ進攻した。直義たちは京都の市街戦で義貞や楠木正成に敗れると九州まで西走し、西国武士たちの指示を集めて再度京都を目指し、建武3年(1336)の湊川の戦いで正成を討死、義貞を撤退させ京都へ入った。
京都へ入ると光明天皇を擁立し、室町幕府を創設した。その時に制定した建武式目は直義の意見が反映された式目となっている。
そして、延元3年/暦応元年(1338)には尊氏が征夷大将軍、直義が左兵衛督に任命される。この当時の室町幕府は御家人の統治担当は尊氏、政務担当は直義と明確に役割分けがされており、お互いの欠点を補い合うような政治体制だった。そのため、2人の政治は二頭政治や両将軍とも呼ばれていた。
正平3年/貞和4年(1348)ごろになると尊氏の執事として代行して政治をしていた高師直(こうのもろなお)と直義は思想の違いから対立し、師直を執事職から追いやることに成功したが、師直のクーデターによって直義は出家させられ、表舞台から降ろされてしまうのだった。
観応の擾乱
正平5年/観応元年(1350)になると直義の養子である直冬(ただふゆ)が直義に代わり、南朝側と手を組み挙兵。この動きに呼応されるかのように直義も南朝に与し、尊氏軍に徹底抗戦の姿勢を見せるようになる。
南朝を味方にした直義軍は快進撃を行い、師直を含む高一族を滅亡させることに成功する。
師直を失って一旦平穏になったものの、腹心を失った尊氏の怒りは収まることなく2人の仲はもう二度と戻ることはなかった。やがて、尊氏が直義追討の準備を整えると直義も反尊氏勢力をまとめ上げ、両軍は正平6年/観応2年(1351)に薩埵峠や相模早川尻で激突した。
しかし、直義軍は敗北し翌年の正平7年/文和元年(1352)に武装解除される。そして、鎌倉の浄妙寺に幽閉されるが、同年の2月26日に急死した。この死に関しては病死とされているが『太平記』では尊氏による毒殺とされている。
まとめ
武家政権の樹立のため後醍醐天皇に反旗を翻し、兄と共に室町幕府を創設した直義。
直情的な兄、尊氏に対して冷静に物事を見ることができる直義は重宝されてもおかしくはなかったが、ルール順守な性格もあり、このことから師直を含む新興武士たちから反感を買ってしまったと考えてしまう。
もう少し臨機応変にやりくりができていたら、直義と尊氏が戦うことはなかったかもしれない。
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