奈良時代

【4度の謀反計画】橘奈良麻呂の乱「大罪人とされ拷問で獄死するも後に名誉回復」

画像 : 第54代天皇 wiki CC BY-SA 4.0

第54代仁明天皇(にんみょうてんのう)は、第52代嵯峨天皇(さがてんのう)と檀林皇后(だんりんこうごう)の間に生まれた天皇である。

父の嵯峨天皇は、平城京から長岡京、そして平安京への遷都を推進した第50代桓武天皇(かんむてんのう)の皇子であった。

母である檀林皇后の本名は橘嘉智子(たちばなのかちこ)で、父は橘清友(たちばなのきよとも)、そして祖父が757年に乱を起こした橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)であった。

つまり、仁明天皇は「橘奈良麻呂の乱」を起こした大罪人を母型の祖先に持つことになるのである。

橘奈良麻呂は、謀反を企てたために拷問を受けて獄死したが、その後、孫の橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后となったことから名誉が回復され、正一位・太政大臣の官位が、死後に追贈されている。

今回は、橘奈良麻呂がどのようにして謀反を起こし、後に高い官位を追贈されたかを詳しく解説する。

『橘奈良麻呂の乱』とは?

画像 : 橘諸兄(たちばなのもろえ)『前賢故実』より public domain

橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、721年に左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の子として生まれた。

皇族としての地位から臣籍降下し、朝臣(あそん)の姓を賜り、父の地位と影響力を背景に従五位下に叙せられた。しかし、奈良麻呂はその叙任前から、女性天皇に反対の立場を取っていた。

奈良麻呂が最も強く反対したのは、聖武天皇が娘の阿倍内親王(あべないしんのう)を皇太子としたことだった。

画像 : 阿倍内親王 (後の孝謙天皇、重祚して称徳天皇) public domain

過去の例では、若すぎて天皇即位が難しい場合、つなぎとして皇后や皇女が即位するということはあった。

だが、阿倍内親王を皇太子にするということは、1代限りの女性天皇を生み出すことになり、それ以降の皇統は別で探す必要が出てくるのである。
そのため「つなぎでの女性天皇でないのであれば、最初から別の皇族から皇位継承者を立てるべき」というのが、奈良麻呂の考えであった。

奈良麻呂はこの思想を基に、皇太子である阿倍内親王を廃し、天武天皇系の男子皇族から新たな皇位継承者を擁立するために、謀反を計画する。

4度の謀反計画

奈良麻呂は生涯にわたって、4度謀反を計画したとされている。

744年、聖武天皇が病に倒れた際、貴族の小野東人(おののあずまひと)、佐伯全成(さえきのまたなり)たちとともに、次期天皇として長屋王の子・黄文王(きぶみおう)を擁立しようと画策するが、佐伯全成に拒絶され、実行に移されなかった。

2度目は749年、聖武天皇が譲位し、阿倍内親王が即位(孝謙天皇)した際の大嘗祭(だいじょうさい)のとき、再び佐伯全成を誘って黄文王擁立を図ったが、反対されて失敗に終わる。

3度目は756年に、聖武上皇が病に倒れたときである。

聖武上皇が危うい状態になりつつあるなか、奈良麻呂は大伴古麻呂、佐伯全成らを再び誘ったが、またもや反対された。

画像:聖武天皇 public domain

しかし、756年5月に聖武上皇が崩御したあと、状況が一変する。

聖武上皇は、天武天皇の皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の子である道祖王(ふなどおう)を、皇位継承者にするように遺言を残す。
これに伴い、道祖王が立太子されるものの、翌年には道祖王の言動、立ち振る舞いが皇位継承者に相応しくないという理由から、廃太子されてしまったのである。

代わりの皇位継承者を決める際、藤原仲麻呂(なかまろ)の策略により、仲麻呂とつながりが深かった大炊王(おおいおう)が皇太子となった。

藤原仲麻呂は、藤原南家の祖・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の次男で、光明皇太后の甥にあたる。
そのため、光明皇太后からの信任があり、孝謙天皇とも関係は良好であった。

仲麻呂は、二人を後ろ盾に台頭し、この頃には専横を極めるようになっていた。
このため、大炊王の皇太子任命に不満を抱き、奈良麻呂の謀反計画に賛同する皇族や貴族たちも増えていった。

4度目の計画は、藤原仲麻呂を排除し、皇太子を廃して天皇に譲位を迫り、天武系の皇子から新たな天皇を立てるというものであった。

しかしこの計画は、小野東人が中衛舎人・上道斐太都(かみつみちのひたつ)に協力を求めたところ、斐太都が仲麻呂に密告したことで露見し、実行される前に阻止された。

こうして、首謀者の奈良麻呂をはじめ、主犯格の皇族たちは全員捕らえられ、拷問の末に自白。

橘奈良麻呂の乱は未遂に終わり、反乱は鎮圧されたのである。

画像 : イメージ画像 草の実堂作成

「橘奈良麻呂の乱」のその後

橘奈良麻呂をはじめ、謀反に加担した主犯格の皇族や貴族たちは、厳しい杖叩きの拷問を受け、次々と絶命した。

道祖王、黄文王、大伴古麻呂、小野東人らは同日中に命を落とし、奈良麻呂もまた、記録には残されていないが同様に拷問死したと考えられている。

謀反に直接関係していなかった者たちにも、流罪や身分剥奪などの厳しい処分が下された。
奈良麻呂から何度も謀反への参加を勧誘され、断り続けていた佐伯全成も、過去の経緯を報告後に自害したと伝えられている。

一方で、藤原仲麻呂はこの事件を利用して政敵の一掃に成功する。

画像:淳仁天皇陵 wiki c Saigen Jiro

仲麻呂は、後に大炊王が第47代淳仁天皇として即位すると、ますますその権勢を極めた。
しかし、次第に孝謙上皇との関係が悪化し、特に光明皇太后が崩御した後には対立が深まっていった。

最終的に、仲麻呂は太政大臣の職と正一位の位階を剥奪され、藤原姓も奪われ、朝敵として討伐されるという悲劇的な末路を迎えることとなる。(※藤原仲麻呂の乱

一方、橘奈良麻呂は獄死したものの、彼の死後に生まれた子・橘清友(たちばなきよとも)を通じて、橘家は復活を遂げる。

冒頭で先述したように、清友の娘である橘嘉智子(たちばなのかちこ)は、嵯峨天皇の皇后となり、その皇子が833年に仁明天皇として即位した。
これにより、かつて謀反の罪で獄死した奈良麻呂にも、正一位・太政大臣という最高位が追贈されたのである。

結果的には、藤原仲麻呂が太政大臣の地位から謀反人へと転落し、逆に謀反人であった橘奈良麻呂が太政大臣の位を得るという、歴史的な逆転劇となったのである。

参考 :
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
文 / 草の実堂編集部

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 「奈良時代の仏教は現代とは違う?」 伝来当時の日本仏教について解…
  2. 【驚愕!】天皇家は元々、天照大神を祀っていなかった? ~皇室本来…
  3. 『奈良時代』権力の頂点に立った男の最期「藤原仲麻呂の乱」はなぜ起…
  4. 『天武天皇の血筋が途切れ、天智天皇系へ』白壁王(光仁天皇)の生涯…
  5. 奈良の東大寺近くにある謎のピラミッド「頭塔」に行ってみた
  6. 聖武天皇は孝謙天皇の次をどうするつもりだったのか?
  7. 長屋王の変と藤原広嗣の乱 「奈良時代を皇位継承をめぐる内乱から見…
  8. 奈良の大仏は過去に何度も破壊されていた

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

なぜ『春画』は江戸で大流行したのか?エロだけじゃないその意外な理由

春画は、江戸時代以前から描かれていた一般に「性」という概念に対しておおらかであったといわれる江戸…

「パンダが日本から消える?」外交官となった神獣の数奇な歴史 〜パンダ外交150年の歩み

和歌山県白浜町のアドベンチャーワールドで飼育されているジャイアントパンダ(以下、パンダ)4頭…

保科正之 〜稀代の名君と呼ばれた家康の孫

松平を名乗らなかった 保科正之保科正之(ほしなまさゆき)は、江戸時代の初めに稀代の名君と…

「2024年も続くアメリカのハイテク企業の人員削減」 NASAのジェット推進研究所、従業員の8%を解雇、

2022年からアメリカのハイテク企業が大規模人員削減(レイオフ)を続けてきたが、この動きは2024年…

平壌を走るボルボ「北朝鮮問題にスウェーデンが絡む理由」

アメリカのトランプ大統領が北朝鮮の金正恩委員長と緊張状態に入り、一時は米朝衝突の可能性すらあった…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP