第54代仁明天皇(にんみょうてんのう)は、第52代嵯峨天皇(さがてんのう)と檀林皇后(だんりんこうごう)の間に生まれた天皇である。
父の嵯峨天皇は、平城京から長岡京、そして平安京への遷都を推進した第50代桓武天皇(かんむてんのう)の皇子であった。
母である檀林皇后の本名は橘嘉智子(たちばなのかちこ)で、父は橘清友(たちばなのきよとも)、そして祖父が757年に乱を起こした橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)であった。
つまり、仁明天皇は「橘奈良麻呂の乱」を起こした大罪人を母型の祖先に持つことになるのである。
橘奈良麻呂は、謀反を企てたために拷問を受けて獄死したが、その後、孫の橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后となったことから名誉が回復され、正一位・太政大臣の官位が、死後に追贈されている。
今回は、橘奈良麻呂がどのようにして謀反を起こし、後に高い官位を追贈されたかを詳しく解説する。
『橘奈良麻呂の乱』とは?
橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、721年に左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の子として生まれた。
皇族としての地位から臣籍降下し、朝臣(あそん)の姓を賜り、父の地位と影響力を背景に従五位下に叙せられた。しかし、奈良麻呂はその叙任前から、女性天皇に反対の立場を取っていた。
奈良麻呂が最も強く反対したのは、聖武天皇が娘の阿倍内親王(あべないしんのう)を皇太子としたことだった。
過去の例では、若すぎて天皇即位が難しい場合、つなぎとして皇后や皇女が即位するということはあった。
だが、阿倍内親王を皇太子にするということは、1代限りの女性天皇を生み出すことになり、それ以降の皇統は別で探す必要が出てくるのである。
そのため「つなぎでの女性天皇でないのであれば、最初から別の皇族から皇位継承者を立てるべき」というのが、奈良麻呂の考えであった。
奈良麻呂はこの思想を基に、皇太子である阿倍内親王を廃し、天武天皇系の男子皇族から新たな皇位継承者を擁立するために、謀反を計画する。
4度の謀反計画
奈良麻呂は生涯にわたって、4度謀反を計画したとされている。
744年、聖武天皇が病に倒れた際、貴族の小野東人(おののあずまひと)、佐伯全成(さえきのまたなり)たちとともに、次期天皇として長屋王の子・黄文王(きぶみおう)を擁立しようと画策するが、佐伯全成に拒絶され、実行に移されなかった。
2度目は749年、聖武天皇が譲位し、阿倍内親王が即位(孝謙天皇)した際の大嘗祭(だいじょうさい)のとき、再び佐伯全成を誘って黄文王擁立を図ったが、反対されて失敗に終わる。
3度目は756年に、聖武上皇が病に倒れたときである。
聖武上皇が危うい状態になりつつあるなか、奈良麻呂は大伴古麻呂、佐伯全成らを再び誘ったが、またもや反対された。
しかし、756年5月に聖武上皇が崩御したあと、状況が一変する。
聖武上皇は、天武天皇の皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の子である道祖王(ふなどおう)を、皇位継承者にするように遺言を残す。
これに伴い、道祖王が立太子されるものの、翌年には道祖王の言動、立ち振る舞いが皇位継承者に相応しくないという理由から、廃太子されてしまったのである。
代わりの皇位継承者を決める際、藤原仲麻呂(なかまろ)の策略により、仲麻呂とつながりが深かった大炊王(おおいおう)が皇太子となった。
藤原仲麻呂は、藤原南家の祖・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の次男で、光明皇太后の甥にあたる。
そのため、光明皇太后からの信任があり、孝謙天皇とも関係は良好であった。
仲麻呂は、二人を後ろ盾に台頭し、この頃には専横を極めるようになっていた。
このため、大炊王の皇太子任命に不満を抱き、奈良麻呂の謀反計画に賛同する皇族や貴族たちも増えていった。
4度目の計画は、藤原仲麻呂を排除し、皇太子を廃して天皇に譲位を迫り、天武系の皇子から新たな天皇を立てるというものであった。
しかしこの計画は、小野東人が中衛舎人・上道斐太都(かみつみちのひたつ)に協力を求めたところ、斐太都が仲麻呂に密告したことで露見し、実行される前に阻止された。
こうして、首謀者の奈良麻呂をはじめ、主犯格の皇族たちは全員捕らえられ、拷問の末に自白。
橘奈良麻呂の乱は未遂に終わり、反乱は鎮圧されたのである。
「橘奈良麻呂の乱」のその後
橘奈良麻呂をはじめ、謀反に加担した主犯格の皇族や貴族たちは、厳しい杖叩きの拷問を受け、次々と絶命した。
道祖王、黄文王、大伴古麻呂、小野東人らは同日中に命を落とし、奈良麻呂もまた、記録には残されていないが同様に拷問死したと考えられている。
謀反に直接関係していなかった者たちにも、流罪や身分剥奪などの厳しい処分が下された。
奈良麻呂から何度も謀反への参加を勧誘され、断り続けていた佐伯全成も、過去の経緯を報告後に自害したと伝えられている。
一方で、藤原仲麻呂はこの事件を利用して政敵の一掃に成功する。
仲麻呂は、後に大炊王が第47代淳仁天皇として即位すると、ますますその権勢を極めた。
しかし、次第に孝謙上皇との関係が悪化し、特に光明皇太后が崩御した後には対立が深まっていった。
最終的に、仲麻呂は太政大臣の職と正一位の位階を剥奪され、藤原姓も奪われ、朝敵として討伐されるという悲劇的な末路を迎えることとなる。(※藤原仲麻呂の乱)
一方、橘奈良麻呂は獄死したものの、彼の死後に生まれた子・橘清友(たちばなきよとも)を通じて、橘家は復活を遂げる。
冒頭で先述したように、清友の娘である橘嘉智子(たちばなのかちこ)は、嵯峨天皇の皇后となり、その皇子が833年に仁明天皇として即位した。
これにより、かつて謀反の罪で獄死した奈良麻呂にも、正一位・太政大臣という最高位が追贈されたのである。
結果的には、藤原仲麻呂が太政大臣の地位から謀反人へと転落し、逆に謀反人であった橘奈良麻呂が太政大臣の位を得るという、歴史的な逆転劇となったのである。
参考 :
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
文 / 草の実堂編集部
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