吉川元春の生い立ち
吉川元春(きっかわもとはる)は、享禄3年(1530年)に戦国大名・毛利元就の次男として生まれました。
吉川の名は、吉川家の養子となったことから名乗ったものですが、この家は元は毛利家よりの格上の家柄でした。
元春が養子に入ったのは天文16年(1547年)の事でした。この養子縁組は、吉川家の内情を利用した父・元就の策略であったとされています。
具体的には、当主であった吉川興経(おきつね)に対し、その興経を快く思っていなかった叔父・経世(つねよ)に取り込んだ元就が、半ば強引に進めたものでした。興経は自らの命の保証と、子である千法師が成長したあかつきには、元春から家督を相続させることを条件に承知したとされています。
しかし、天文19年(1550年)元就は興経を隠居させ、そのまま元春に家督を継承させました。その上で
興経と千法師を誅殺して、毛利家よりも高い家柄だった吉川家を支配下に置いたのでした。
因みに、元春の初陣は、天文9年(1540年)の尼子晴久との吉田郡山城の戦いとされており、この時、元春は元服前であり、父・元就が止めるのも聞かずに戦に加わったものとされています。
生涯不敗の伝説
巷説によると元春は、生涯で合計76回にも及ぶ戦に出陣して64勝・12引き分けと、無敗であったとも伝えられています。
実際には、弘治2年(1556年)からの石見国などにおける尼子晴久との戦においては、何度か退けられており、無敗というのは伝説に過ぎないとの見方も多いようです。
しかし、父・元就をして「戦では元春に(自分すら)及ばない」とすら評されています。このことからも戦の力量は、毛利家でも比類なき武将であったことには疑問の余地はなさそうです。
翌、弘治3年(1557年)に父・元就が隠居すると、弟・小早川隆景と共に「毛利両川」と称されて毛利家を支える原動力となりました。
両者は、元春が軍事面、隆景が内政・外交面を中心にして、毛利家の中国支配を担う働きをみせました。
秀吉を退けた背水の陣
元春は、尼子家や大内家などの敵対勢力を駆逐する働きを見せ、一躍毛利家を中国地方の覇者に押し上げました。
しかしこれにより、新たな対立も発生させました。畿内を制した織田家と国境を接することになり、羽柴秀吉の侵攻を招くことに繋がったのでした。
とりわけ元春の武威をよく表しているエピソードが、天正9年(1581年)の鳥取城を巡る秀吉との戦いです。
毛利に与していた鳥取城主・山名豊国は、秀吉の侵攻を察知すると、早々に城を捨てて逃亡してしまいます。
そのため、残された山名氏の重臣らは、元春に助けを求めました。
元春は求めに応じ、吉川経家を鳥取城に送り、自らも主力の兵を率いて後詰(救援)に向かいました。
先ず経家を臨時の城主として送り込み、自らの軍勢が着くまでの間、籠城させようとしたものです。
すると秀吉は、鳥取城を包囲し、完全に封鎖して城を孤立させました。鳥取城は、4ケ月にも及ぶ封鎖によって兵糧が尽き、餓死者が続出する状態に追い詰められました。
ここに至り経家は、自らの切腹と引き換えに城兵らの助命を秀吉に申し入れました。
かくして経家は、臨時とは言え城主としての責を全うして切腹して果てました。この知らせを耳にした元春は、秀吉を討つべく猛然と進軍しました。元春の軍勢は凡そ6,000人と言われてますが、渡河した橋を全て打ち壊し、船も陸に上げてすぐには使えないようにして進軍させたと伝わっています。
所謂「背水の陣」という、決して引かない覚悟を現した陣形でした。
これを見た秀吉は、圧倒的に優勢な兵力(約20,000人)を有しながらも、戦を避けて、しばらく対峙したのちに、ついに兵を引きました。
この時の様子を、秀吉の家臣・宮部継潤は「吉川がいる限り、毛利家の武運は衰えることはないだろう」と述べたと伝わっています。
元春の最期
天正10年(1582年)には備中高松城が秀吉の攻めを受けます。
元春は輝元・隆景らと共に救援に向かいましたが、秀吉の水攻めによって城は水没、救援は叶いませんでした。
この時、本能寺の変が発生し、この事態を伏せて毛利と和睦を結んだ秀吉は、京へと戻ります。
本能寺の変を後に知った元春は、秀吉を追撃することを主張しますが、弟・隆景は父・元就の遺訓からこれに反対し、以後は豊臣の天下取りに協力する路線を選びます。
これに対し、秀吉への臣従を快く思っていなかった元春は、天正10年(1582年)末には、家督を嫡男の元長に譲り、隠居を口実にして表舞台から姿を消したと言われています。
しかし、天正14年(1586年)の九州征伐には秀吉・隆景に請われて出陣、そのまま出征先の豊前小倉城で病によって没しました。
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