戦場においては勇猛果敢でさまざまな才能を持ち、「伊達男」ぶりでも知られた初代仙台藩主・伊達政宗。
歴史に名を刻む名将として、現代でも人気が高い武将です。
そんな伊達政宗のもう一つの顔として、男同士の契りである「衆道」を嗜んでいたことが知られています。
政宗は深い愛情ゆえの激しい恋模様を繰り広げていました。そこには、単に性愛だけの結び付きではなく男同士の友情・信頼・敬愛など、魂と魂の結び付きがあったのです。
戦国武将が嗜んだ「修道」。伊達政宗の場合は…
伊達政宗は、15歳で初陣、18歳で伊達家の17代当主となり、その後わずか24歳で奥州の約半分と出羽の一部を支配下に置きました。「生まれるのがあと10年早かったら天下を取っていた」といわれるほど、勇猛果敢な天才的戦国武将のイメージがあります。
そんな伊達政宗は、戦国時代に多くの武将が嗜んでいた「衆道(しゅうどう)」を好み、当時その美しさで名を馳せていた青少年を可愛がっていました。
衆道とは、平安時代に始まり戦国時代に花開いた「男性同士の性愛」のことで、「男色(だんしょく)」とも呼ばれます。
しかし、「衆道」は主に「武士同士の男色」を指し、肉体関係だけではなく、たとえば武将とその家臣が深い絆を作り確固たる信頼関係を築き上げるため……という意味合いも大きかったようです。
また戦国時代は、妻子を国に残したまま長期間戦に遠征しなければならず、全く女性のいない環境の中で、かいがいしく主君の身の回りの世話をする、若く、見目麗しい小姓が、寵愛の対象になりやすかったという説もあります。
平安時代から戦国時代に衆道を嗜んだ貴族や武将としては、藤原頼通・藤原頼長・織田信長・武田信玄・徳川家康など有名な人物が挙げられます。
今回ご紹介する伊達政宗は、相手の美少年に激しく嫉妬したり、愛しい家臣を思わず抱き寄せたりなど、人間味あふれるエピソードが残されていて、「伊達者」政宗の情愛の深さを窺い知ることができるのです。
美しい側室の弟で美貌の持ち主だった小姓・只野作十郎
伊達政宗が激しく想いを寄せた相手として有名なのは、小姓の只野作十郎(ただのさくじゅうろう)と家臣の片倉重長(かたくらしげなが)の二人が代表的です。
作十郎は、伊達家譜代の家臣・多田吉弘の娘で、その美貌が政宗の目に留まり側室となった勝女(かつめ : 於勝の方)の弟であり、姉と共に小姓として政宗に支えていました。美しい姉と同様に、作十郎も誰もが思わず見惚れるほどの美少年だったとか。
もともとは、政宗の側近・佐々若狭が多田吉広の子である姉弟の美貌に目を付けていて政宗に推挙したそうです。政宗は、作十郎に夢中になり二人は衆道の契りを交わしました。政宗はその頃50歳前後と伝わっています。
ある日、政宗は「只野作十郎に横恋慕するものあり」という密告文を見ました。どこの誰だかわからない不確かな情報でしたが政宗は信じてしまったのです。狂おしいほどの嫉妬・疑念がふくらみ、もともと酒癖が悪かった政宗は、酒席にて酔った勢いを借りて作十郎を責め罵倒してしまいます。
それを遺憾に思った作十郎は、自ら潔白を証明するために己の腕を刀で傷付け、流れた血で血判を押した起請文を政宗に送り付けたのです。
当時、そのような自傷行為は「貫肉(かんにく)」「腕引(うでひき)」と呼ばれ、衆道の契りを交わした者同士の愛と誠意の証とされていました。
作十郎の叫びが伝わってくるような血判起請文を受け取り、政宗は我に返りました。
「大変申し訳ない振る舞いをした」と、作十郎に対して長い長い詫び状を送ったのです。
この詫び状をざっと意訳すると
酒の勢いでひどいことを言ってしまった。私は覚えていないのだ。腕を切って血判を押すなど、私がそばにいたらすがりついてでもとめたのに。お詫びに(「貫肉」の)お返しをしたい。だが、わたしはもはや子供も孫もいる身なので思いとどまっている。どうかどうか許してほしい 「伊達政宗より只野作十郎宛の書状」仙台美術館
というような内容になります。
勇猛果敢な政宗のイメージとはかけ離れているような、ちょっと言い訳がましい言葉が連なるなかでも、申し訳なさ・作十郎の愛を失いたくないという焦り・自分の愛情をわかって欲しいという切なさがひしひしと伝わってくるような手紙です。
作十郎の年齢はわかりませんが、政宗よりはかなり年下であったと推測されます。しかも政宗は主君で、作十郎は小姓。
自分よりも目下の存在であっても、愛する恋人として、また信頼できる家臣として作十郎を愛し尊重していたのではないでしょうか。
信頼と愛情を寄せていた美しく勇敢な家臣・片倉重長
そして、もう一人、政宗と衆道の関係があったことで知られるのが伊達家の家臣で、政宗の近習からのちに軍師的な役割を務めた片倉小十郎景綱の子・片倉重長(かたくらしげなが)(別称・片倉小十郎重綱)です。
大坂の陣では病中の父に代わり参陣し、手柄をあげて智勇兼備の名将として「鬼の小十郎」と称されたほど、激しく命知らずな闘いぶりで知られた人物として知られています。
と聞くと、たくましき大男を思い浮かべてしまうのですが、実は他の大名がうらやましがるほどの名だたる「美少年」としても非常に有名だったそうです。
幕末から明治に活躍した浮世絵師・落合芳幾作の片倉重長の浮世絵(※上画像)をみると、「抜けるような色白の肌・すっと通った鼻筋・整った眉・キリッとした涼しげな目元」など、美少年ぶりが想像できます。
この重長、1584(天正12)年、この世に生を受けたとき、父の景綱が「伊達家に嫡男誕生までは片倉家に慶事罷りならぬ」、つまり「主君より先に子を授かるなど不忠義だ」という理由で、あやうく殺されるところでした。
それを知った政宗は「そんなことをしたら許さぬ。わたしの顔に免じて助けてくれ」との手紙を送って止めたのです。
そんな経緯もあったせいか、政宗はことのほか、重長を寵愛しました。
年月とともに、思わず誰もが振り返るほど麗しい美少年へと成長していく重長を見つめながら、政宗の愛はどんどん深まり、二人は主君と家臣という垣根を越え「愛」の絆で結ばれるようになったそうです。
重長が30歳を迎えた、1614(慶長19)年、徳川家と豊臣家の間で「大坂夏の陣」が勃発します。知らせを聞いた重長は、政宗に「私を先鋒にしてください」と頼み込みました。
政宗は先鋒という危険な大役を、自ら名乗り出た重長の気持ちにいたく感激。思わず重長を引き寄せてその頬に接吻して「お前以外に誰を先鋒にするというのだ」と感激の涙を流しました。
主君である政宗からの愛情と深い信頼からの対応に、心から感動した重長。期待と想いに応えなければとばかりに伊達家の先鋒をつとめ、剛勇の武将として知られた後藤又兵衛相手に奮戦し、見事討ち取りました。
1636(寛永13)年、政宗が参勤交代により江戸に向かう途中、白石城に1泊した際、政宗は重長に「国の久しいことを心がけ、よく取りはからってほしい」と伝えたそうです。
これが、身も心も固く結ばれあった二人の今生の別れとなったのです。
まとめにかえて…
「天命を知る年齢」といわれる50歳を迎えた政宗が、年若い美少年・只野作十郎にぞっこんになり嫉妬に苛まされたり平謝りしたりと翻弄されるさまは、勇猛果敢な武将でありながらも繊細でヤキモチ焼きだった一面が垣間見え、現代の恋愛事情にも相通ずるものを感じます。
また、片倉重長のエピソードには、主君と家臣、武士と武士の、他人には決して断ち切ることはできない深くて固い心のつながりが感じられます。
いつ何時情勢がひっくり返り、己の明日の命も分からない戦国の世で、深く愛し信じられ支えになってくれる相手と身も心も固く結ばれたい……戦国武将の間で広まった「衆道」にはそのような想いがあったのではないでしょうか。
参考:
・名古屋大学大学院 国際言語文化研究科〜『葉隠』における武士の衆道と忠義〜
・伊達政宗言行録 「政宗公名語集」
・伊達政宗の手紙 佐藤 憲一
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