大正&昭和

『日本政府の中枢にいたソ連スパイ』死刑になった新聞記者・尾崎秀実とは ~ゾルゲ事件

画像:尾崎秀実 public domain

尾崎秀実(おざき ほつみ)は、日本人ジャーナリスト兼評論家でありながら、ソ連のスパイとしても活動した人物である。

内閣嘱託として近衛文麿のブレーンとなり、中国問題などで政権に影響を与えた彼は、日中戦争から太平洋戦争開戦前夜にかけて、日本の外交政策にも一定の役割を果たしたとされる。

尾崎が所属したスパイ組織「ゾルゲ諜報団」が摘発された「ゾルゲ事件」では、当時の内閣総理大臣・近衛文麿の側近であった尾崎に加え、外交ブレーンとして政権に関与していた西園寺公望の孫・西園寺公一も逮捕された。
これにより、近衛文麿にも情報漏洩の疑いが向けられることとなった。

尾崎は何を目的にスパイとなり、自らの命をかけて諜報活動を行っていたのだろうか。

今回は「ゾルゲ事件」で死刑となった日本人スパイ、尾崎秀実の生涯を紐解いていく。

尾崎秀実の生い立ち

尾崎秀実(おざき ほつみ)は、1901年11月7日、東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)に生まれた。

父の尾崎秀真(おざき ほつま)は薬剤師や編集者の職を経て、日本統治時代の台湾で創刊された『台湾日日新報』の主筆と教育者を兼業した人物であった。

画像:父の尾崎秀真(1933年頃)public domain

幼い頃の秀実は父の台湾行きに伴い、少年時代を台湾で過ごした。

この台湾での生活で目の当たりにした社会格差で生まれた差別は、少年だった秀実に大きな違和感を与えたという。

学業優秀だった秀実は、台湾在住時に台北第一中学校に入学し、卒業後は日本に帰国して第一高等学校に進学、東京帝国大学法学部へ進んだ。

秀実が資本主義に疑問を抱き、共産主義思想に傾倒するようになった背景には、少年時代に見た貧困層への差別や、学生時代に相次いだ社会主義者弾圧事件、特に1923年の「甘粕事件」(特高警察の甘粕正彦が無政府主義者・大杉栄らを殺害した事件)などがあったとされる。

資本主義の正当性に疑問を抱くようになった秀実は、マルクスの『資本論』やレーニンの『国家と革命』『帝国主義論』を愛読するようになり、ウィットホーゲルの『目覚めつつある支那』を読んで、中国問題にも興味を示すようになった。

東大大学院進学後には、マルクス主義や社会主義思想の研究に傾倒し、明確に共産主義の立場を取るようになっていった。

そして大学院を卒業後の1926年、秀実は東京の朝日新聞社に入社し社会部に配属される。

新聞記者として活動する傍らで、偽名を使って社会主義の研究会に所属し、共産主義者としての活動も並行して行っていたという。

上海に渡り、コミンテルン本部機関に協力し始める

朝日新聞社に入社した翌年の1927年11月、秀実は大阪朝日新聞社の上海支局に特派員として転勤し、ドイツ語と英語に堪能だったため、外交方面の役割を受け持つことになった。

上海滞在中は内山書店の店主・内山完造や、郭沫若や魯迅など中国の文人と交際し、中国共産党員とも交流を持った。

画像:アグネス・スメドレー public domain

上海入り翌年の1928年11月、秀実は毛沢東に同行取材した経験もある敏腕アメリカ人女性記者のアグネス・スメドレーと出会い、コミンテルン本部機関に加わり、組織の諜報活動に関わるようになる。

「コミンテルン」とは、正式名称を「共産主義インターナショナル」といい、1919年に結成された国際共産主義運動の指導組織だ。

ちなみにこの頃、秀実は兄・秀波の元妻であった英子と、不倫関係を経て結婚していたが、アグネス・スメドレーとも男女の関係を持つようになっていく。

秀実とアグネスの男女関係はさておき、アグネスとの出会いをきっかけにコミンテルンの諜報活動に協力するようになった秀実は、アメリカ共産党員の鬼頭銀一の紹介である人物と知り合う。

その人物こそが、当時コミンテルンの組織員で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員ジョンスンを名乗るリヒャルト・ゾルゲだった。

ゾルゲは1930年から1932年にかけて、ソ連の諜報員として上海を拠点に活動し、ドイツや中国(当時の中華民国)などから軍事や外交に関する重要な情報を集めていた。
ソ連の方針に従って中国共産党を支援する工作にも関わり、現地ではスパイ組織の中心的な役割を担っていた人物である。

秀実は記者としての能力や共産主義者としての思想を高く評価され、ゾルゲから直接諜報活動への協力を求められて、承諾するに至った。

スパイとして日本の政権中枢に接近する

画像:リヒャルト・ゾルゲ wiki c Bundesarchiv

秀実は、新聞記者としての仕事の傍らで中国での情報収集活動を行った後に、1932年2月末に日本に帰国し、朝日新聞社の外報部で勤務することとなる。

その年の6月初めには、ゾルゲを筆頭とする諜報活動グループ「ゾルゲ諜報団」のメンバーであった宮城与徳を介してゾルゲと日本で再会し、その時に改めて諜報活動への従事を求められ、「ゾルゲ諜報団」の一員となって活動し始めた。

「オットー」というコードネームで呼ばれるようになった秀実は、それから2年後の10月に、東京朝日新聞の東亜問題調査会勤務となる。

そのさらに2年後にカリフォルニアで行われた太平洋問題調査会に中国問題の有識者として参加し、日本代表団の書記として参加していた西園寺公一と行き帰りの船室で同室となり、親交を持つようになった。

この会議のパーティーにはゾルゲも参加しており、秀実はこの時に初めてゾルゲの本名がジョンスンではなく、リヒャルト・ゾルゲであることを知ったという。

翌1937年には、西園寺の通訳として会議に参加していた内閣書記官・牛場友彦の斡旋により、第1次近衛内閣の内閣嘱託を引き受け、東京朝日新聞を退社した。

近衛文麿は、中国問題に誰よりも詳しい秀実をブレーンとして重用した。

自らが主催する政治勉強会にも参加させており、この近しい関係は第1次近衛内閣のみならず、第2次、第3次までも続いた。

秀実が行った諜報活動

画像:西園寺公一 public domain

秀実の諜報活動は中国滞在時から既に始まっていたが、本格化したのは1932年に日本に帰国してからである。

東京で生活し始めた秀実は、毎月ゾルゲと目黒の「雅叙園」や築地の「花月」、銀座のバーなど、都内各所の料亭や待合で接触し、自らが収集した政治・軍事情報を手渡していたという。

評論家としては中国問題について『中央公論』や『朝日新聞』などで論じた。

1937年の盧溝橋事件後は蒋介石率いる国民政府を酷評し、中ソ不可侵条約締結前後には日中戦争拡大方針を主張して日本の注意が中国に向くよう仕向け、人々の反中感情を扇動し、長期戦を覚悟した徹底抗戦の必要性を説いた。

日本においての反中感情の高まりにより、中国との早期和平を目指すためのトラウトマン工作は打ち切られ、コミンテルンの計画通りに日中戦争は長引き、日本の国力が消耗する要因の1つとなった。

近衛文麿に信頼された側近で、西園寺公一とも交流を持っていた秀実は、日本軍の首脳部との繋がりを得ており、軍の機密情報もゾルゲに流していたとされる。

また秀実は、大政翼賛会の構想に関与し、政党を解体して一つの組織にまとめあげる体制づくりを後押しした。
一国一党による統制体制を肯定する立場から、政権の独裁的色彩を強める方向へと働きかけていたとされる。

日本の対ソ連戦参戦の可能性が高まった1941年には、日本の対外政策を東南アジア方面に進出する南進論に転じさせるようゾルゲに提言し、ゾルゲ諜報団はそのために積極的に政府に働きかけたという。

日本が南方に進出したことは、アメリカとの対立を決定的なものとし、やがて太平洋戦争の勃発へとつながっていく。
そしてその戦争の結末が、日本にとっていかに苛烈なものであったかは、言わずもがなである。

帝国主義国家同士を衝突させ、資本主義政権を崩壊に導こうとする秀実の行動は、まさにレーニンの「敗戦革命論」に沿うものであった。

※「敗戦革命論」とは、資本主義国家が戦争によって混乱・弱体化した隙を突き、労働者が社会主義革命を起こすべきだとする理論。レーニンは、資本主義国同士を争わせることで、革命のチャンスが生まれると説いた。

ゾルゲ事件の首謀者として死刑に

画像:1941年秋ごろに撮影された近衛文麿 public domain

近衛内閣のブレーンとして、そしてソ連のスパイとして精力的に活動していた秀実だったが、先立って逮捕された宮城与徳の供述をきっかけに、太平洋戦争が始まる直前の1941年10月14日にゾルゲ事件の首謀者として検挙、翌15日に逮捕された。

元締めであるゾルゲもまた、日本の特高警察に同年10月18日に逮捕される。

秀実を通じて情報を流していた西園寺公一や、その他多くの関係者も逮捕、検挙されたが、関与を疑われた近衛文麿は秀実が逮捕された翌日の1941年10月16日に内閣総辞職しており、その後まもなく太平洋戦争開戦となったため、不問となった。

逮捕後の聴取にて、秀実は自分を含むゾルゲ諜報団の目的および任務は、「世界共産主義革命を遂行する上で最も重要な支柱であるソ連を、日本帝国主義から守ること」であると述べたという。

度重なる厳しい取り調べを受けた秀実に下された判決は、治安維持法違反、軍旗保護法違反、国防保安法違反による死刑であった。

ソ連に関与を否定され、同じく死刑の判決が下されたゾルゲとともに、1944年のロシア革命記念日である11月7日に絞首刑に処された。

死刑に処される日を待つ秀実の様子は、少しの動揺も見えず、何か大事を成し終えたような落ち着いた態度であったという。

秀実は死後に多磨霊園に埋葬され、秀実がスパイであったことなど露とも知らない妻や娘宛てに獄中で記した書簡集が、戦後に『愛情はふる星のごとく』と題されて、世界評論社から出版されている。

参考 :
太田 尚樹 (著)『尾崎秀実とゾルゲ事件: 近衛文麿の影で暗躍した男
尾崎 秀実 (著), 今井 清一 (編集)『新編 愛情はふる星のごとく
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

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