家族で仲睦まじくパンを食べる回想シーンで初登場となった、二宮和也さん演じる柳井清。
彼のモデルは、やなせたかし(本名・柳瀬嵩)氏の父親・柳瀬清氏です。
柳瀬清氏は31歳の時、特派員として派遣されていた中国のアモイで亡くなっています。死因は病死でした。
父親が亡くなった時、やなせたかし氏は5歳。父親との思い出はおぼろげながらも、愛されていたという実感は心に深く刻まれていました。
亡き父によって漫画家へと導かれ、兵隊として渡った中国で生きのびた時は、父親に守られていることを強く感じたというやなせ氏。
今回は、やなせ氏と父・柳瀬清氏の深い絆に迫ってみたいと思います。(以下敬称略)
柳瀬清の生家は300年続く旧家

画像 : 東亜同文書院虹橋路校舎 public domain
1892年(明治25年)11月15日、柳瀬嵩の父・柳瀬清は、高知県香美郡在所村朴ノ木(現・香美市香北町朴ノ木)で生まれました。
在所村の由来である御在所山には、平家の落人が幼い安徳天皇を守るため隠れ住んだという伝説があり、山頂には安徳天皇と平教盛が祀られています。
柳瀬家も伊勢平氏の末裔で300年続く地元では有数の旧家でした。江戸時代には庄屋として名家たる存在感を誇りましたが、清が生まれた頃にはすでに没落し、二間に9人家族が寝起きする生活でした。
清は7人兄弟の次男で、兄の寛(ひろし)とともに成績優秀だったため、名門・高知県立第一中学校(現・県立高知追手前高校)に進みます。
中学卒業後、兄は京都府立医学専門学校(現・京都府立医科大学)に、弟の清は東亜同文書院へ進学しました。
東亜同文書院とは、アジア圏で活躍するエリートを育成するという目的のため、上海につくられた私立の高等専門学校でした。
日本の各府県が学費や生活費を負担する「公費生」という制度があり、日本全国から優秀な人材が集められ、清も「公費生」として県費留学しています。故郷の期待を背負いながら学んだ3年間でした。
ジャーナリストとして活躍するも中国で急逝

画像 : 1歳の頃のやなせたかし public domain
1916年(大正5年)、東亜同文書院を卒業した清は、日本郵船上海支店で2年間勤めた後、帰国。講談社に転職しました。
1918年(大正7年)には同じ村に住む谷内登喜子と結婚し、翌年、嵩が生まれます。
一家は、東京の借家に暮らしました。部屋数は3つ。
小さな庭の付いた家で、部屋には当時まだ珍しかった蓄音機が置かれ、壁には家族旅行で清が撮影した富士山や日光の写真が飾られていました。
こぢんまりとした家で、一家は幸せな生活を送ったのでした。
講談社で雑誌『雄辯』(ゆうべん)の編集をしていた時、清は朝日新聞社からヘッドハンティングされます。
もともと読書家で文才があった清には、物書きになりたいという夢がありました。
多くのジャーナリストを輩出した東亜同文書院で学び、自身も記者を目指していた清にとって、この話は渡りに舟でした。
1921年(大正10年)4月、朝日新聞社に入社し、中国語の腕を買われた清は「支那部」に配属されます。
翌1922年(大正11年)10月には広東特派員を命じられ、単身赴任のため妻の登喜子と嵩、前年の6月に生まれた次男の千尋の三人は、母の実家へと戻りました。
当時の中国は、国民党と共産党が国共合作の道を模索している時期であり、社会情勢が大きく揺れ動いている時期でした。
清は取材で街中を駆け回っては執筆し、出来上がった記事を東京へ送るという日々を送っていました。
当時の新聞紙面には「柳瀬清」の署名記事が多数掲載され、精力的に仕事をこなしていたことがうかがえます。
忙しく仕事をこなす一方で、文学青年だった彼は、広東の大学に在学していた詩人の草野心平たちと短歌結社を作り、短歌の創作活動も行っていました。
また、がっちりとした体格の清はスポーツマンで、特にテニスと水泳を得意としていたそうです。文武両道の青年は、仕事に余暇に充実した日々を送ったのでした。
しかし、輝かしい日々は長く続きません。
赴任から1年半が経った1924年(大正13年)5月16日、清は急病のため帰らぬ人となったのです。享年31でした。
出版の夢を抱いていた柳瀬清

画像 : イメージ
生前、東京の家で暮らしていたとき、清は嵩をことのほか可愛がっていました。
お土産をしょっちゅう買ってきたり、肩車をしたり、嵩が寝間着に着替える時は、毎晩清が着せていました。
そのため父親がいない時に母親が着替えさせようとすると、「お父さんがいい」と、嵩はわがままを言ったこともあったそうです。
5歳で父親と死別した嵩の記憶はどれもおぼろげですが、父が自分を愛してくれていたことだけは、しっかりと胸に刻まれたのでした。
父が亡くなった後、嵩は父が母に宛てた大量の手紙や手記を読み、病によって夢を絶たれた父親の無念を知ります。
生前、清が中国から妻・登喜子に送った手紙には、以下のように書かれていたのです。
「ぼくは文章を書くこと、絵を描くことは生涯続けてやっていく。そして、必ずや、後世に残る本を出版する」
やなせたかし著『明日をひらく言葉』より引用
このとき嵩は、父親の遺志を継ぐことを決意します。
幸い、文筆と絵の秀でた才能を父親から引き継いだのでしょう。幼いころから嵩は、絵を描くことが好きでした。
伯父の家に預けられ、母も父もいない寂しさを、絵を描いたり本を読んだりして紛らわせていたという理由もあるのかもしれません。
文学青年だった父の遺した本を読みふけり、絵を描くことに没頭した嵩は、漫画家「やなせたかし」として父の果たせなかった夢をかなえたのでした。
自分が絵や文筆の道を選んだのは、どこか父の意志に導かれているような気がしていたそうです。
戦地で父・清と同じ景色を見た嵩

画像 : 軍人の頃のやなせたかし(日出生台演習場にて)1940年ごろ public domain
嵩が亡き父に守られていると強く感じたのは、戦地で行軍していた時でした。
行軍ルートが、清が東亜同文書院時代に卒業旅行で歩いた道と重なっていたのです。
清が学んだ東亜同文書院では、毎年卒業旅行を兼ねた調査旅行が行われていました。
いくつかの班に分かれ、上海を起点に2カ月以上かけて大陸全土を巡り歩く大規模な旅行です。
清は、浙江省と江西省を中心に旅行していました。
清と嵩が通ったルートで重なっているのは、寧波から温州までの部分で、父は海岸沿いを南下して温州へ向かい、嵩は北上していたのです。
父の遺品の旅行記を読んでいた嵩は、30年前、父も同じ道を歩いたことを知っていました。
過酷な行軍の中、嵩は何度も父を思い「これがお父さんの通った道だ。お前もそれを見てくれ」と言われたような気がしたといいます。
さらに生きのびて上海で終戦を迎えたとき、嵩は「自分は父に守られているのだ」という思いを強くしたのでした。
おわりに
晩年、嵩は父親についてこう語りました。
九十三歳になったいまでも、僕は父のことが、すごく好きなんですよ。母よりも父を。どうしてそんなに好きなのか、よくわからないんだけど。
いつも心の中に父がいて、毎日仏壇を拝むんです。「お父さん、ありがとう」って。
父のDNAをいくらかもらって、そのDNAでやっと仕事しているなあという気持ちが自分の中にあるのでね。やなせたかし著『何のために生まれてきたの?』より引用
絵も文章も父親ほどうまくない。父親には到底かなわない。
そう言いながら、嵩が父親のやり残したことをやり遂げた裏には、いつも草葉の陰から見守ってくれた父・柳瀬清の存在があったのでした。
参考文献
やなせたかし『何のために生まれてきたの?』PHP研究所
梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』文芸春秋
文 / 草の実堂編集部
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