昭和22年10月、28歳で三越百貨店に入社したやなせたかし氏は、宣伝部でポスターや看板の制作などを手がけていました。
今も使われている包装紙のロゴも、彼のデザインです。
そんなやなせ氏がひそかに情熱を注いでいたのが「漫画」の世界でした。
当時は「本を出せば必ず売れる」と言われた時代。
漫画の注文はひっきりなしに舞い込み、やなせ氏は堂々と会社で副業に励んでいました。
やがて原稿料は三越の給料の3倍に達し、妻・暢さんとの共働きで貯金を重ね、二人は夢だったマイホームを手にします。
そして、暢さんの後押しを受け、ついに彼は漫画家として独立を果たしたのです。
今回は、やなせ氏の副業事情からフリーの漫画家になるまでの歩みを辿ります。
三越で堂々と副業する不良社員

画像 : 日本橋 public domain
昭和22年、上京し小松暢さんと同棲を始めたやなせ氏は、日本橋三越の「日本広告界展」に応募し、見事3点が入選。
1点は、デパートの部の部会賞に輝きました。
ちょうどその頃、三越百貨店は宣伝部員の募集をしており、やなせ氏は採用試験を受け10月から社員となりました。
宣伝部では、三越劇場のポスターの制作やショーウィンドウの装飾などを担当。食品売り場用に描いた新巻鮭の絵は好評だったそうです。
一見順調そうに見えますが、後年やなせ氏は「自分は不良社員だった」と語っています。
というのも面接の態度が生意気だという理由で、やなせ氏は一度不合格になっていたのでした。
作品を持参するように言われていたにもかかわらず、手ぶらで面接に臨み、「作品は?」と問われると「そこの展覧会場に飾ってあるからみてください」と言ったのがいけませんでした。
よほど心象が悪かったのでしょう。不合格にされてしまったのですが、同郷の重役のとりなしのおかげで合格できたのでした。
入社後、重役室に呼ばれたやなせ氏は、「俺の顔をつぶさないでくれよ」と念を押されたそうです。
しかし、その後も態度は改まることがなかったようで、当時の同僚・松永和男氏は、こんな証言をしています。
「いやあ、三越へ入ってびっくりしたなあ。やなせ君は全然仕事しないんだもの。
会社以外の自分の仕事を部長の眼の前で平気でやっているし、私用電話はやたらにかける、面会が多くてしょっちゅう外出する、弁当は部長より高いのを注文して女の子に運ばせて食べているし、ぼくにはとても真似できなかったよ」やなせたかし著『アンパンマンの遺書』より
確かにやなせ氏は、会社で堂々と副業をしていました。
夢をあきらめきれず、三越で働きながら副業で漫画の投稿をしていたやなせ氏には、とにかく時間が必要でした。
そこで、仕事が早いのをいいことに、20分ぐらいで一日分の本業の仕事を終わらせ、残りの時間をすべて漫画の仕事にあてていたのです。
会社で堂々と副業とは大胆なものですが、本人いわく、「あまった時間を有効に利用していただけ」だそうです。
そんな不良社員時代について、後年やなせ氏はこのように振り返っています。
「もし、その頃のぼくのような部下を持ったとしたら、ぼくでさえとてもがまんができなかったにちがいない。
はじめから腰かけのつもりでいるのだから始末が悪い。
若い頃は今よりもっと生意気で、性質も温和そうにみえてひねくれていて、頑固一徹。権威が嫌いで反抗する。
自由主義で、極端に束縛されるのをいやがるから、非常に使いにくい。」やなせたかし著『アンパンマンの遺書』より
漫画集団『独立漫画派』に所属し、仕事をもらう

画像 : 小島功『小説倶楽部』1964年1月特大号より public domain
終戦後、娯楽に飢えた人々の熱望に応えるかのように、次々と新しい雑誌が創刊されていました。
新聞や雑誌には、必ず4コマや8コマの漫画が掲載されていたのですが、漫画を描ける人材が圧倒的に不足しており、当時の漫画家は引く手あまたでした。
そんな空前の漫画ブームの中、やなせ氏は手当り次第に新聞や雑誌に投書し、たびたび入選を果たしていました。
ある時、「毎夕新聞」の漫画部長・松下井知夫氏から声がかかり、編集部へ遊びにいったやなせ氏は、ここで自分と同じような投書漫画家と出会い、縁あって漫画集団「独立漫画派」に参加することになります。
戦前の漫画家は、漫画の団体に所属し、団体を通じて仕事を請け負うのが一般的でした。
やなせ氏が投書していた当時は「漫画集団」の黄金時代で、大手新聞はもちろん主流の雑誌の漫画は「漫画集団」の団員たちが牛耳っていました。
その「漫画集団」に対抗すべく、小島功(こじま こお)氏らによって設立されたのが「独立漫画派」だったのです。
ちなみに小島氏は、「かっぱっぱ、ルンパッパ~」で有名な酒造メーカーのCMに登場する「かっぱ」の絵を手がけた人物です。
「独立漫画派」は、銀座の雑居ビルに事務所を構え、マネジメント業務を行っていました。
雑誌社から注文が入ると、担当者に仕事が割り振られ、仕事をこなすと原稿料が支払われる仕組みです。
やなせ氏は三越を定時で退社すると、毎日銀座の事務所へ向かうようになりました。
「独立漫画派」に所属したことで仕事はどんどん増え、やがて漫画家としての収入は、三越の給料の3倍を超えるまでになったのです。
オンボロアパートを卒業し、四谷に家を建てる

画像 : イメージ public domain
昭和24年、やなせ氏と暢さんは結婚式をせずに入籍し、正式な夫婦となりました。
この頃、暢さんは代議士秘書を辞め、創設されたばかりの日本自転車振興会へと転職しています。
二人は「自分たちの家を持つ」という目標のためにせっせと貯金をしていましたが、凄まじいインフレのため暮しは楽ではありません。
それでも二人はなんとかやりくりをし、昭和26年、四谷荒木町に家を建てました。
42坪の借地に二階建ての小さな家でしたが、二人で懸命に働いて手にした念願のマイホームです。
庭の藤棚の鳥籠ではカナリアがさえずり、白いフェンスにはツルバラが彩を添え、アパートでは飼えなかった犬3匹と猫が1匹。
オンボロアパートの生活を卒業し、やなせ夫妻は自分たちだけの城を手にしたのでした。
「私が働いて食べさせてあげる」独立を決意したやなせ氏

画像 : 三越 public domain
漫画家としての収入が給料の3倍を超えた頃から、やなせ氏はフリーになる道を考えるようになりました。
三越に入社して5年が経ち「定年まで勤めても、うまくいって宣伝部長止まりか」と思うと、「退社してフリーになりたい」という気持ちがフツフツと沸き起こってくるのです。
しかし、自信がありません。
サラリーマンデザイナーか、はたまた漫画家か。
「漫画家にもいろいろな分野があり、どの分野にも天才がいて、とても太刀打ちできない。だったらサラリーマンの方が……」などと堂々巡りが続き、なかなか決断できません。
ところが、そんな夫とうって変わって、暢さんは肝が据わっていました。
「やめなさいよ、なんとかなるわ、収入がなければ私が働いて食べさせてあげる」
彼女の平然とした態度と前向きなひと言に背中を押され、やなせ氏は退社を決意したのでした。
やなせ氏の自伝では、ここまでしか語られていませんが、実は彼が独立に踏み切ったもう一つの理由がありました。
暢さんの茶道のお弟子さんで、やなせ氏の秘書を務めた越尾正子さんの著書『やなせたかしのしっぽ』には、次のように記されています。
「デザイナーの世界でもオレはトップクラスにいて、十分やっていける自信もあったし、デザインの世界も面白いと思っていた。
オレって人に何か言われるのが、嫌いな人間だろう。デザイナーの世界では、クライアントにいろいろ言われる。
それが嫌だからデザイナーを辞めて、漫画家になることにしたのだ」越尾正子著『やなせたかしのしっぽ』より
ポスターに緑色の髪の女性を描けばやり直しを命じられ、レースの手袋をしたご婦人を描けば「夏に手袋はおかしい」と文句を言われる。
そんなことの繰り返しで、やなせ氏はクライアントからいろいろ言われることに、すっかり嫌気がさしていたようです。
ともあれ、新居に仕事部屋と専用の電話を用意し、準備万端になったところで三越に辞表を提出しました。
昭和28年、34歳のやなせ氏は漫画家として歩み始めたのでした。
参考文献
やなせたかし『アンパンマンの遺書』岩波書店
越尾正子『やなせたかしのしっぽ』小学館
文 / 草の実堂編集部
その人の描く世界観=その人の人格…なワケはないのでしょうけど
やなせ氏の描くメルヘンと
やなせ氏の為人のギャップ…に
暫し、困惑覚めそうにない私です…
評すべきはヒトじゃない!
作品(氏が描いた世界)こそが!と
割り切るよう、いや割り切れるようになりたいです…