昭和28年(1953年)、34歳で三越を退社し、漫画家として独立したやなせたかし氏。
漫画だけでなくラジオやテレビなど多彩な分野で活躍し、経済的な余裕ができたことから、妻の暢さんは仕事をやめて専業主婦となっています。
「奥さんのおかげで、自由に仕事ができた」。やなせ氏がそう語るほど、暢さんは家事だけでなく、仕事の雑務まで一手に引き受け、夫が創作に集中できるよう献身的に動いていました。
今回は、夫の“裏方”として生きる道を選んだ暢さんのエピソードとその想いに迫ります。
「一日30時間あったらどんなにいいか」と語った暢さん

画像 : イメージ(煙突の見える場所 1953年) public domain
念願だったフリーの漫画家として独立したやなせたかし氏と、仕事をやめて専業主婦となった暢さん。
マイホームの庭には色とりどりの花が咲き、犬三匹、猫一匹に囲まれた穏やかな暮らしのはずでしたが、三食昼寝付きのお気楽な身分とはいかなかったようです。
僕は、自分の仕事以外は、全部カミさんに頼っていた。散髪もときどきカミさんにしてもらっていたほどです。経済的な面とか、何もかもカミさん任せ。(中略)カミさんがやりくりしてくれたおかげで、僕は自由に仕事をすることができました。
やなせたかし著『絶望の隣は希望です』より
夫が仕事に専念できるよう、暢さんは日に三度の食事の支度などの家事全般に加え、経理の事務作業や雑務も担い、多忙な日々を送っていたのです。
昭和63年(1988年)、70歳のときに受けた朝日新聞のインタビューでは、「一日30時間あったらどんなにいいか」と語っています。
当時、夫妻はスタジオと住居を兼ねた新宿区のマンションに暮らしており、暢さんの母・登女(とめ)さんとも同居していました。
登女さんは92歳。日々の家事に加え、高齢の母のお世話も重なり、暢さんの忙しさはさらに増していたのかもしれません。
金銭感覚も趣味も正反対の二人

画像 : 剣山 パブリックドメインQ
やなせ夫妻は正反対の性格で、その違いは金銭感覚や趣味にもくっきりと表れていました。
やなせ氏は学生時代から堅実派で、仕送りの半分を使い、残りは翌月の生活費にまわすという計画的なタイプ。
一方、暢さんはというと、給料日の前日には、「明日お金が入るから」と買い物をして、パーッと使い切ってしまう人でした。
堅実な夫と豪快な妻。金銭感覚ひとつとっても、二人の性格の違いがよくわかります。
とはいえ、暢さんは浪費家だったわけではありません。
彼女は投資でしっかり利益を出し、着物を買えるほどの成果を上げていたそうです。
趣味の面でも、二人はまったく違いました。
暢さんの趣味は山登りで、時間を見つけては日本中の山という山に登ったそうです。
小柄で細身の体に、自分と同じくらいの大きなリュックを背負い、山に登ると「気持ちがスーッとする」、「面白くてたまらない」と目を輝かせる暢さん。
そんな妻を見るにつけ、インドア派でレジャー嫌いのやなせ氏は、「あんなものはエネルギーの無駄づかいだ」と思っていたそうです。
ただ、本心ではそう思っていても、「人生の楽しみは人それぞれ」、妻の意見を尊重し、彼女の趣味を否定することは一度もありませんでした。
性格が違うからこそ、面白い。やなせ氏は、そんな“違い”を楽しみながら、夫婦生活を築いていたのでした。
好きなことに熱中できるふたりは、性格は反対でもどこか似ていたのかもしれません。
きっちりした性格で姐御肌な暢さん
暢さんの甥・川上峻志(たかし)さんによると、暢さんは気が強く、怖いもの知らずだったそうです。
川上さんの母親は暢さんのすぐ下の妹・瑛さんで、「やなせスタジオ」で経理を担当し、姉の仕事を手伝っていました。
川上さんが初めてスタジオを訪れたとき、暢さんは茶室に招いて丁寧にもてなしてくれたそうです。
暢さんには茶道の趣味があり、教室を開いて多くのお弟子さんを抱えていました。
和菓子屋の主人である川上さんにも茶道の心得があると知ると、暢さんはとても感激し、「主人は無趣味なのよ」と笑いながら話したそうです。
暢さんは川上さんをとても可愛がっていて、川上さんの次男が東京のテレビ局に就職した際には、やなせ氏が所有するマンションの一室を無償で提供しました。
しかし、テレビマンの仕事は不規則そのもの。朝から出かける時もあれば、昼から出かける時もあり、夜中に帰っては昼間まで寝ていることもある、そんな生活です。
仕事上、仕方ないことなのですが、そんな事情を知らない暢さんは、「真っ昼間から寝ないで」、「掃除して」、「仕事して」とまくしたてました。
口やかましく言われたせいでしょうか。テレビマンの彼は1年もしないうちにマンションを出て行ってしまったそうです。
また、暢さんは姐御肌で、お茶のお弟子さんたちを連れて、よく旅行にも出かけていました。

画像 : 楠トシエ public domain
交友関係も広く、夫の仕事を通じて知り合った歌手・楠トシエさんとは特に親しくしていました。
楠さんは、さっぱりとした明るい性格で、二人はとても気が合ったようです。
暢さんの望み
カミさんは僕より1つ年上でしたが、あるときこういったことがあります。「私にはさしたる望みもないけれど、せめてあなたが誰でも知っている人になったらうれしいわ」と。だから僕が60歳近くになって、ようやくアンパンマンで少し世に認められたときは、それはうれしそうでした。
やなせたかし著『絶望の隣は希望です』より
30代から40代にかけて、代表作には恵まれなかったものの、漫画や作詞、舞台美術、シナリオ作成など幅広い分野で活躍していたやなせ氏は、45歳でNHK「まんが学校」に出演したことをきっかけに、顔も名前も広く知られるようになっていました。
すでに「誰でも知っている人」にはなっていたものの、やなせ氏自身は納得していなかったのかもしれません。「やなせたかしといえばこれだ」と胸を張れる代表作で認められたい。そんな思いがあったのでしょう。
昭和48年(1973年)、保育園や幼稚園に配布される月刊絵本『キンダーおはなしえほん』10 月号に掲載された『あんぱんまん』は、2年後には『それいけ!アンパンマン』と改題されて市販されましたが、当初は大きな反響を得られませんでした。
しかし、幼稚園や保育園を中心にじわじわと人気が広がり、数年後には注文が殺到するようになります。
「新しいお話を読みたい」という声が全国から寄せられ、昭和58年(1983年)から昭和60年(1985年)にかけて、やなせ氏は25冊もの新作を描き下ろしました。
押しも押されもせぬ人気絵本作家となったことで、やなせ氏はようやく世に認められたと実感できたのでしょう。
暢さんも、きっと同じ気持ちだったのかもしれません。
「アンパンマン」人気はとどまるところを知らず、昭和63年(1988年)には、アニメ『それいけ!アンパンマン』の放送が始まります。
瞬く間に大ヒットとなり、収入は「花形野球選手の年俸ぐらい」になったといいます。
その時、やなせ氏は71歳。後年、当時の心境をこう振り返っています。
ぼくもやっと人生の晚年でスレスレながらプロ漫画家としてのパスポートを貰えたような気がしました。
やなせたかし著『人生なんて夢だけど』より

画像 : 勲四等瑞宝章 CC0
平成3年(1991年)には、勲四等瑞宝章を受章。
4月29日の受章式には夫婦そろって皇居へ参内し、秋には赤坂御苑で開かれた園遊会に招かれ、天皇皇后両陛下にごあいさつをする機会を得ました。
美智子さまとお話をする夢が叶ったと子どものように喜ぶ暢さん。その姿をみているうちに、やなせ氏もうれしくなり、これは 「アンパンマンがくれた勲章だ」と感じたそうです。
先述の朝日新聞のインタビューで、暢さんは自身の人生についてこう語っています。
(人生を)振り返ったって戻ってきませんでしょ。だからいつも前向き。きょう一日元気で、少しは人様の役に立って、自分のことも少しはできて、寝るとき、ああ、今日もよくやったなって……
遅咲きと言われながらも大輪の花を咲かせたやなせ氏。
その成功の裏には、夫の才能を信じ、いつも前を向いて支え続けた妻・暢さんの存在があったのでした。
参考文献
やなせたかし著『絶望の隣は希望です』小学館
やなせたかし『人生なんて夢だけど』フレーベル館
やなせたかし著『アンパンマンの遺書』岩波書店
越尾正子著『やなせたかしのしっぽ』小学館
高知新聞社『やなせたかし はじまりの物語:最愛の妻 暢さんとの歩み』
この記事へのコメントはありません。