「ばけばけ」第4週「フタリ、クラス、シマスカ?」では、夫か家族かで揺れるトキの葛藤が描かれました。
銀次郎が良い人すぎて、筆者は「このまま東京で一緒に暮らしたら」と思わず言ってあげたくなってしまったのですが、結局トキは家族を捨てることができず、松江に戻って行きました。
史実でも結婚からわずか1年で夫・為二が出奔し、セツは夫を連れ戻すため大阪へと赴いています。
しかし、セツに返されたのは、夫からの冷たい言葉でした。
絶望の淵で「死のう」とまで思った彼女。
今回は、セツの最初の夫・為二が出奔したいきさつと、二人の別れに迫ります。
ささやかな幸せを感じた新婚生活

画像 : 月琴を弾く娘(彩色、1890年、ライムント・フォン・シュティルフリート撮影)public domain
小泉セツの最初の夫である前田為二は、因幡国(現在の鳥取県東部)の出身。
セツの家と同等の貧窮士族の次男だった彼は、28歳で稲垣家に婿入りしました。
当時セツは、18歳。10歳年上の為二は頼もしく、またお互い物語好きという共通点もあり、二人はすぐに打ち解けました。
為二は近松門左衛門の浄瑠璃ものを愛読しており、その影響を受けてセツは近松の作品を読み始めます。
また彼の勧めで、当時流行していた月琴のお稽古へ通い始めるなど、夫婦仲はとても良く、貧しいながらも二人は幸せな時を過ごしていました。
厳格な祖父と莫大な借金 出奔した為二

画像 : イメージ「傘貼りの仕事」(1860年代)public domain
江戸時代の武家では、家禄を受け継ぐことができるのは長男のみ。
それ以外の男児は、一生部屋住みとして終わることが多く、武家の次男三男にとって婿として他家に入るのはとてもラッキーなことでした。
為二も稲垣家を継ぐ者として、覚悟をもって婿入りしたのでしょう。
しかし、現実はかなり厳しいものでした。
まず、時代錯誤のおじじ様、万右衛門です。
武士としての気位を捨てられない彼は、婿を家風に合わせようと厳しく躾ました。
若い為二にとって、格式や身分にこだわり、新しい時代に適応できない爺様は、煙たい存在だったに違いありません。
そして、まったく働く気のない義父の金十郎。
彼は詐欺にあって事業を失敗しただけでなく、自分をだました相手から無実の罪を着せられて訴えられ、裁判費用で全財産を失っていました。
生活費にも事欠く稲垣家を支えているのは、姑トミが内職の縫物で得るわずかな金と、朝から晩まで自宅で機織りの仕事をしている妻セツの稼ぎだけでした。
一家を奈落に突き落とした元凶にもかかわらず働かない義父と、一銭にもならない武士のプライドにこだわり続ける祖父。
唯一の男手である自分のささやかな給料を、家族全員があてにしているのは明らかでした。
しかも負債は莫大で、一生借金取りに追われる生活は必至。
そんなお先真っ暗な未来に絶望した為二は、結婚1年を待たずに稲垣家から姿を消してしまったのです。
為二に拒絶され、死のうと思ったセツ

画像 : 松江大橋(大正6年頃)public domain
為二が大阪にいると分かると、稲垣家では人を遣わして帰ってくるよう勧めたのですが、為二は聞き入れません。
これではいつまでたっても埒が明かないと思ったセツは、なんとか旅費を工面し、夫を連れ戻すため大阪へ向かいました。
小泉八雲とセツの長男・小泉一雄氏の著書によると、為二は大阪で県庁に勤めたとも機業会社で働いていたともいわれていますが、詳細は定かではないそうです。
一緒に松江に帰ってほしいと懇願するセツ。しかし、すでに為二にセツを思う気持ちはなく、彼は冷たい言葉を浴びせ追い返したのでした。
一人で松江に帰ることになったセツは、足取りも重く、お金のない惨めさを身にしみて感じていました。
格式ある家に生まれたという事実は、彼女の人生には何の意味も持ちませんでした。
幼いころから貧しい暮らしを送り、愛してやまなかった学校も退学を余儀なくされ、11歳から始めた機織りの仕事でなんとか糊口をしのぐ日々。
働きづめの毎日で、ようやく手にした結婚というささやかな幸せさえも、貧しさは容赦なく奪っていったのです。
橋の上に差し掛かかったセツは「このまま川に飛び込んで死んでしまいたい」という衝動に駆られます。
しかし、橋の欄干に手をかけたその時、稲垣家の父と母、そして祖父の顔が浮かんできました。
セツは4歳の頃から、自分が貰い子であり、稲垣家の人たちとは血のつながりがないことを知っていました。
それでも、彼女の胸に去来したのは、実の親ではなく、育ての親たちへの深い思いでした。
のちに「実の母親にはあまり愛情を抱けなかった」と語ったように、セツにとって養い親である稲垣家の面々こそが本当の家族であり、かけがえのない存在だったのです。
家族の顔を思い浮かべながら、セツは松江に戻る決心をしたのでした。
離婚後、小泉家に復籍

画像 : 上流武家の子女が結った高島田 wiki c Andrew O
明治23(1890)年、為二との離婚が成立し、それを機にセツは実家である小泉家に復籍しました。
当時22歳だった彼女のこの決断は、当主・小泉湊を失った小泉家と、育ての家である稲垣家の両方を支える覚悟を意味しています。
つまり、小泉家の実母・姉・弟、そして稲垣家の養父母・養祖父と、そのすべての家族の暮らしを、セツひとりが背負うことになったのです。
小泉セツは、武士の娘でした。
川に身を投げることも、小泉家の長男のようにすべてを放り出して逃げることもなかったのは、自然と身についた武士道の精神が彼女の内に息づいていたからでしょう。
家を守るという武士としての誇りが、セツに辛抱強さと深い孝行心をもたらしたのでした。
参考文献
長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』潮出版,2025
小泉一雄『父小泉八雲』小山書店, 1950 国立国会図書館デジタルコレクション
文 / 深山みどり 校正 / 草の実堂編集部
























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