「ラシャメンってそれはつらい思いをするらしいけん。異人の妾だいうだけで、人間だない言われて……」
「ばけばけ」第27回では、ヘブンの女中になることを決意した遊女のなみ(さとうほなみ)が、ラシャメンの悲惨さを語りました。
明治時代、外国人相手の日本人娼婦や妾は「ラシャメン」や「洋妾」と呼ばれ、差別や偏見の対象となりました。
ラフカディオ・ハーンの妻・小泉セツは、晩年、「ラシャメンと呼ばれるのが一番つらかった」と語っています。
なぜ彼女たちは、それほどまでに差別されたのでしょう?
ハーンの女中となった小泉セツ

画像 : ラフカディオ・ハーン public domain
明治23年(1890年)8月、英語教師としてラフカディオ・ハーンは松江に赴任しました。
当初は富田旅館に滞在していましたが、女中・お信の眼病に無関心な宿の主人に憤りを感じ、旅館を出て一軒家に引っ越します。
ところが、勢いよく独立したものの、身の回りの世話をしてくれる人がいません。
やむを得ず、以前の旅館からお信と臨時雇いのお万に手伝いを頼みましたが、来たり来なかったりの彼女たちにハーンの苛立ちは募るばかりでした。
住み込みの女中を探してもなかなか見つからず、ようやく決まりかけた年増の女性にも逃げられてしまいます。
そんな中、ハーンの「士族の娘を雇いたい」という希望を満たす人物として、お信の知人である小泉セツに白羽の矢が立ちました。
住み込み女中の話を聞いたセツは、すぐには決断できませんでした。
当時の日本では、外国人に仕える女性は「ラシャメン」と呼ばれ、たとえ遊女でなくても蔑まれていたのです。
住み込みとなれば妾と見なされることもあり、純粋な奉公であっても、世間はそう思ってはくれません。
「金目当てに没落士族の娘がラシャメンになった」と嘲笑されることは、容易に想像できました。
それでもセツは決意します。
小泉家と稲垣家という二つの家族を支えるためには、世間体を気にしている余裕などなかったのです。
「軽蔑されても家の名を汚すことになってもいい」
彼女は強い覚悟をもって、ハーンの住み込み女中となったのでした。
ラシャメンとは?

画像 : 羊 public domain
ラシャメンは「羅紗綿(緬)」と表記され、もともとは羊毛製の織物や羊そのものを指す言葉でした。
しかし幕末以降、この言葉は外国人男性と関係を持つ日本人女性、娼婦や妾、現地妻などを蔑む意味で使われるようになります。
その背景には、西洋の船乗りが食用にと船に乗せていた羊(綿羊)が、実は性欲処理のためだったという噂が広まり、羊と性的な意味が結びつけられたとされています。
さらに、西洋人が犬を寝室に連れて行く様子を見た日本人が、「彼らは動物とも関係を持つのか」と誤解したという説もあります。
こうした誤解や偏見が重なり、外国人と性的な関係を持つ女性を、動物と同等に扱う侮蔑的な言葉として「ラシャメン」は定着していったのです。
外国人の妻となった小泉セツが、周囲から差別や蔑視を受け苦しんだのも、こうした背景によるものでした。
ラシャメンが差別された理由

画像 : 攘夷論の風刺図(開港直後の横浜で行われた相撲の模様)public domain
・外国人への嫌悪感
開国直後の日本では、西洋人や西洋文化を異質なものとして見る傾向がありました。
特に幕末から明治初期には、「攘夷」思想が広まり、外国人は「夷狄(いてき)」として蔑視されていました。
「夷狄(いてき)」とは、外敵や野蛮人、未開の存在という意味です。
こうした風潮の中で、外国人と関係を持つ日本人女性は、社会的に許容されない異質な存在とされ、動物と同列に扱われることもありました。
「ラシャメン」という言葉が侮蔑的に使われたのも、外国人への強い嫌悪感が背景にあったのです。
・経済的格差による、ねたみ

画像 : 芸者 イメージ public domain
外国人への偏見に加え、経済的な格差もラシャメン差別の一因でした。
明治政府が招いた「お雇い外国人」は、日本人の数倍の報酬を受け取っており、社会的な不満の対象となっていました。
たとえば、英語教師として松江に赴任したラフカディオ・ハーンの年俸は100円で、これは県知事に次ぐ高額だったといわれています。
当時、三食付きの旅館の宿泊費が1日30銭だったことからも、その待遇の良さがうかがえます。
外国人と関係を持つラシャメンもまた、高額な報酬を得ることがあり、中には高級官吏並みのお手当を受けていた女性もいました。
彼女たちは派手な装いをし、高級な装飾品を身につけていたため、一目で日本人相手の遊女と見分けがついたそうです。
こうした経済的な格差に対するねたみが、ラシャメンへの差別意識をさらに強めていったのです。
ラシャメンと呼ばれた女性たち

画像 : ラシャメンとして有名な「唐人お吉」を撮影したものと称されている写真 public domain
「ラシャメン」の対象は、時代とともに少しずつ広がっていきました。
当初は、外国人専用の遊郭で働く遊女や妾となった女性を指していましたが、やがて異人館に通う一般女性や外国人家庭で使用人として働く女性、さらには外国人の妻までもが「ラシャメン」と呼ばれるようになります。
やがて時代が進み、明治も終わりの頃になると、この言葉は性的な意味を離れ、西洋の学問を修める女学生や、外国人と行動を共にする女性にも使われるようになりました。
「ラシャメン」という言葉は、女性たちの生き方や社会の価値観の変化を映し出す、鏡のような存在だったといえるかもしれません。
参考文献
江口真規『日本近現代文学における羊の表象: 漱石から春樹まで』彩流社
文 / 深山みどり 校正 / 草の実堂編集部
























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