NHK「ブギウギ」では戦局が一層激しさを増し、スズ子たちは空襲に怯える日々を送っています。
福来スズ子のモデル・笠置シヅ子も空襲で家を失い、巡業先では連絡船が爆撃されるという経験をしています。
今回は、笠置シヅ子の空襲体験について解説します。
空襲で家を失うも、穎右と一つ屋根の下で暮らせることに
昭和20年5月25日400機を超えるB29が東京西部に飛来。3,200トン余りの焼夷弾が投下され東京は壊滅状態となります。三軒茶屋にあった笠置シヅ子の家も焼失を免れませんでした。
京都花月で公演中だったシヅ子は、空襲の知らせを受けたものの千秋楽まで帰れず、無事公演を終え帰京したシヅ子を迎えたのは、焼き尽くされ変わり果てた街の姿でした。
一緒に住んでいた父親は、かろうじて焼け残った知り合いの家に避難していました。
家を失い途方に暮れていたシヅ子でしたが、父親を郷里の四国に疎開させ、自分は近隣に住んでいた杉原貞雄に誘われ、荻窪にある林弘高の家に避難することになります。
映画プロデューサーだった杉原は、吉本興行東京支社長の林と旧知の仲で、林は被災した杉原に家を提供したのでした。
戦前、林は荻窪に1000坪の土地を購入していました。当時の荻窪は畑ばかりの何もない土地だったため、安価で手に入れたそうです。
林は自宅の隣の空き家を借り、被災した親戚や知人などに避難場所として提供していました。
空き家は、かつて林が懇意にしていたフランス人が住んでいたモダンな洋館で、シヅ子と杉原一家が1階に、2階には市ヶ谷の家を失った吉本穎右が避難していました。
笠置シヅ子の自伝によると、「穎右と一つ屋根の下に暮らしたのは、後にも先にもこの半年間だけだった」そうです。
それまでは、父親と同居していたシヅ子の家に穎右が訪れるのは難しく、シヅ子が市ヶ谷にある穎右の家へ通っていました。
近くには穎右の姉が住んでいたので、姉に見つからないように、シヅ子は深夜に穎右のもとを訪れ、夜明けには帰るようにして、二人そろって近所を歩くようなことはせず、人目を避けて交際を続けていました。
穎右は穏やかで優しい人柄で、夜中にシヅ子が「お腹がすいた」と言うと、お茶を入れたり、パンを切って用意したり、かいがいしく世話をしてくれたそうです。
明日はどうなるか分からない時代でしたが、シヅ子は自伝『歌う自画像』の中で、この時期が「わが生涯最良の年だった」と語っています。
避難先の荻窪の家では、杉原一家や林の親類たちとの共同生活だったので、穎右と二人だけでゆっくり過ごすことはできませんでしたが、二人はアイコンタクトでお互いの意思疎通をはかり、それはそれでシヅ子にとっては刺激的だったそうです。
敵性歌手と見なされ、楽団も失っていたシヅ子は、この時期あまり仕事もなく、一日中穎右の部屋の掃除や洗濯に時間を費やしています。
シヅ子は、いつも消毒用のエタノールを持ち歩き、ドアノブを触った後や買い物のお釣りをもらった後など、ことあるごとに脱脂綿で手を拭くほどの潔癖症でした。
彼女はついつい掃除、洗濯をやりすぎてしまい、穎右に叱られることもありましたが、そんな生活にシヅ子はこの上ない幸せを感じていました。
俳優・長谷川一夫の命を救った笠置シヅ子
戦前から戦後にわたって日本映画界を代表する二枚目俳優として君臨した長谷川一夫は、戦時中召集されたものの、肝臓の悪化を理由にすぐに除隊となっています。
空襲の影響で映画の撮影もままならず、一座を率いて地方巡業を行い日銭を稼いでいた長谷川は、昭和20年7月、北海道の軍需工場へ慰問興行に訪れることになり、メンバーには笠置シヅ子も含まれていました。
シヅ子は仕事の都合で、長谷川より一日遅れて東京を発ちましたが、途中宇都宮駅付近で空襲警報が発令され、避難をしながら、翌日の深夜に青森駅に到着しました。
到着後すぐ、シヅ子は駅長から青函連絡船が爆撃されたと知らされます。
昭和20年7月14日から15日にかけて行われた北海道空襲でした。
北海道空襲は、アメリカ海軍空母機動部隊の艦載機が北海道各地で行った空襲で、北海道と本州を結ぶ船舶も攻撃対象となり、青函連絡船は全連絡船12隻が壊滅状態、352人の死者を出しています。
先に出発した長谷川たちは、爆撃された連絡船に乗っていたはずです。連絡船の乗客全員が死亡したと聞いたとたん、ショックのあまりシヅ子は駅のベンチに崩れ落ちました。
船も鉄道も不通となり、身動きがとれなくなったシヅ子たちが駅を出ようとしたところ、長谷川と行動を共にしていた床山の浜田に出くわします。
急いで浜田に長谷川の安否を尋ねると、長谷川たちは浅虫へ行っていて無事だったと分かりました。
長谷川は、「自分たちが先に行ってしまうと、シヅ子が寂しがるだろうから」と言って船に乗らず、浅虫でシヅ子が来るのを待っていてくれたのです。
はからずもシヅ子の遅刻が長谷川たちの命を救い、シヅ子自身も九死に一生を得たのでした。
参考文献:笠置シズ子『歌う自画像 : 私のブギウギ傳記』,北斗出版社,1948.
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