昭和20年8月15日、長かった戦争が終わりました。
笠置シヅ子(当時は笠置シズ子)は、巡業先の富山県で終戦を迎えています。
5月の空襲以来、一つ屋根の下で暮らしていたシヅ子と吉本頴右。二人は新しい時代をどのように迎えたのでしょうか?
終戦とジャズ
昭和20年8月30日、終戦から約2週間がたったこの日、連合国軍最高司令官ダグラス ・ マッカーサー元帥が神奈川県厚木飛行場へ降り立ちました。
連合国最高司令官総司令部(以下GHQ)は、空襲による爆撃で焦土と化した横浜、東京をはじめ、日本各地の焼け残った建物や土地の多くを接収し、軍の施設や軍人用の住宅に作り替えはじめます。
それらは「オフリミット」と呼ばれ、日本人の立ち入りを禁じました。
第一ホテルや帝国ホテル、日比谷市政会館、大蔵省など、焼失を免れた丸の内の建物の多くは接収され、第一生命館には総司令部本部が置かれます。
銀座の服部時計店や松屋銀座本店はPX(基地内の物品販売所)となり、東京宝塚劇場は「アーニー・パイル劇場」と改称され、日本人の観客の出入りが禁止されました。
日比谷通りは「Aアヴェニュー」、銀座通りは「ニューブロードウェイ」と通りの名や地名が英語表記に変わり、街中には銃を装備したアメリカ兵が闊歩する。それまで「鬼畜米英」を叫び「敵性語」の追放をしていた人々の前に、突如「アメリカ」が現れたのでした。
アメリカ文化が堰を切ったように流入し、GHQが開設した米軍向けのラジオ局からは朝から晩までジャズが流れ、敗戦の翌月には街にジャズがあふれていました。
終戦から1ヶ月、舞台でジャズを歌った笠置シヅ子
敗戦後、人々は焼け野原となった街を再建し、以前の暮らしを取り戻そうと復興にとりかかります。その中でも芸能の復興の速さには、眼を見張るものがありました。
昭和20年9月9日、NHKがラジオで歌謡曲の放送を再開し、10月にはリクエスト番組「希望音楽会」が始まりました。リスナーの投書によるリクエストは、純音楽3割、軽音楽6割、邦楽1割。純音楽はいわゆるクラシックで、軽音楽は流行歌やジャズ、ハワイアン、シャンソン、タンゴなどを含む大衆音楽であり、邦楽は民謡や都々逸などでした。
さらに12月31日には、はやくも「紅白歌合戦」の前身である「紅白音楽試合」が放送されています。
戦時中、敵性歌手として辛い時代を過ごした笠置シヅ子は、敗戦後復活を遂げます。
昭和20年9月、接収される前の東京宝塚劇場で、シヅ子は長谷川一夫、高峰秀子、灰田勝彦、轟夕起子らとともに舞踊と歌の公演に出演。ジャズを歌いました。
シヅ子が本格的な復帰を果たしたのは、11月20日、日本劇場(通称日劇)の再開第一回公演『ハイライト』で、灰田勝彦、轟夕起子、岸井明とともに舞台に立っています。
日劇の再開を待ち望んでいた娯楽に飢えた人々が大勢押し寄せ、公演は大盛況。シヅ子は再び歌手として多忙な日々を送ることになりました。
12月、音楽の師である服部良一が上海から帰還し、服部とシヅ子の師弟コンビは活動を再開します。
翌年3月から有楽座で喜劇王・榎本健一、通称エノケンの舞台『舞台は廻る』にシヅ子は出演し、服部は音楽を担当しました。
舞台は連日満員となり、興行は大成功をおさめます。シヅ子の喜劇女優としての才能を見出したエノケンは、その後も舞台や映画でシヅ子と共演。作品の音楽を担当したのは、服部良一でした。
なお、服部が上海から帰還した1ヶ月後、昭和21年1月にシヅ子は、服部家へ引っ越しをしています。
それまで、シヅ子は空襲で家を失ったため、林弘高の知人の家に身を寄せ、同じく被災した穎右と一つ屋根の下で暮らしていました。
“私たちの間柄がそろそろ林常務にも分かってきたので、正式に話を持ちだすまでは控え目にした方が良いと思った”
(出典:笠置シヅ子『歌う自画像 私のブギウギ伝記』)
同棲解消の理由についてこのように述べたシヅ子ですが、この年、穎右が大学を辞めて就職することになり、けじめをつける意味もあったのかもしれません。
大学を中退し、吉本興行へ入社した穎右
昭和19年結核と診断され徴兵を免れた吉本穎右は、昭和21年、大学を中退し吉本興行東京支社に就職しました。
穎右の叔父であり東京支社長の林弘高は、吉本興業の跡取りである穎右に興行の世界を知って欲しいと考え、東京吉本の本拠地「浅草花月劇場」の支配人に穎右を抜擢。さらに、横浜の劇場や映画館を運営する「東映興業株式会社」の取締役に就任させています。
穎右は母や叔父の期待に応えようと懸命に仕事に励みましたが、結核という持病を持つ穎右にとって、劇団のプロデューサーという仕事は激務でした。
舞台稽古のために徹夜をしたり、酒席にもよく顔を出しては飲み過ぎたりして、身体がどんどん弱り、結核の症状も出るようになっていました。
昭和21年5月、母親・吉本せいが穎右の体を心配し、「大阪へ帰ってきて欲しい」と頻繁に訴えるようになります。
仕事が一区切りした6月、穎右が帰阪することになり、シヅ子は見送りのため同行しました。
二人は琵琶湖畔の旅館で1泊し、翌日大津駅で別れました。
「では、ちょっと行ってくるさかい…秋には東京へ帰れるやろう」
別れ際、そう言って車窓から手を振った穎右が、再び東京に戻ってくることはありませんでした。
参考文献
井上寿一『終戦後史 1945-1955』.講談社
笠置シヅ子『歌う自画像 私のブギウギ伝記』.宝島社
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