『東京ブギウギ』の大ヒットでトップスターの地位を獲得し、高額納税者となった笠置シヅ子(当時は笠置シズ子)。
戦後の住宅難だった時代に念願のマイホームを手に入れ、幸せな生活を送るシヅ子のもとに、ある日「娘を殺す」という脅迫状が届きます。
なぜ、笠置シヅ子は犯罪の標的になったのでしょうか?当時の世相とともに解説します。
目次
高額納税者となった笠置シヅ子。あだ名は「カセギシヅコ」
『東京ブギウギ』のヒットで売れっ子となった笠置シヅ子は、昭和23年(1948年)度、東京在住著名人の高額納税者番付で作家の吉川英治に次いで第2位となります。
税務署による高額納税者の公示は、第三者が監視することによって適切な申告を促すという目的のため昭和22年(1947年)から行われました。しかし、納税者の氏名・住所・納税額が公表されていたため、犯罪を誘発する恐れがあることや個人情報保護の観点から、平成17年(2005年)度分を最後に廃止されています。
シヅ子がランクインした年の個人所得一千万未満の有名人は、吉川英治250万、笠置シヅ子200万、上原謙130万、菊田一夫100万などで、シヅ子は「カセギシヅコ」のあだ名をつけられました。
一方、一千万円以上の高額納税者の1位は「金融王」と言われた高利貸しの森脇将光で、所得額9千万円。2位の皮革業者・大野富則4500万の倍でブッチギリの1位でした。トップに金貸しが君臨するというのは、戦後の混乱期ならではといえるでしょう。ちなみに3位は岩波書店・岩波雄二郎の4000万でした。
世田谷に306坪の土地を購入し、豪邸を建築した笠置シヅ子
「ブギの女王」になってからというもの、舞台や映画、地方巡業と引っ張りだこになったシヅ子は、多忙な日々を送っていました。
一人娘との生活のため必死に働き、昭和25年(1950年)、シヅ子は世田谷に306坪の土地を購入し、念願のマイホームを手に入れます。ハリウッドスタイルと呼ばれるしゃれた約40坪の平屋建ての母屋のほかに27坪の別棟があり、そこには運転手の親子3人とお手伝いの若い女性2人が住みました。
美しい庭は近所で評判となり、「笠置ガーデン」と呼ばれ、ガーデニングはシヅ子の趣味になりました。丹精込めて育てた花々は、ご近所に配られたそうです。
昭和26年(1951年)新居に移り住んだ時、シヅ子は37歳、娘・エイ子は4歳。娘の誕生日には自慢の庭でガーデンパーティーを開いています。
やきとりやおでん、そば、すしなどの店が出る豪華さで、招待客は200人ほど。
エノケンやロッパなどの有名人のほか、ファンクラブの大半を占めていた「ラク町(有楽町)のお姉さん」たちも招待され、数年にわたって開かれたパーティーの様子は雑誌で紹介されました。
「一人娘を殺すぞ」、脅迫状におびえる笠置シヅ子
昭和29年(1954年)3月31日、シヅ子を驚愕させる事件が起きます。
「オレたちの結社に金がいるから天神橋下に6万円おけ。さもないと一人娘を殺すぞ」という脅迫状が自宅に届いたのです。
すぐさまシヅ子は警察に通報。その後、電話を含め全部で9回の脅迫がありました。
個人情報の保護という考えなどなかった当時、驚くことに、一部の娯楽雑誌には、スターの生年月日や出身地、住所、電話番号、家族や同居人、果てはお手伝いさんからペットの名前まで、ありとあらゆる情報が掲載されていました。
4月8日、警察は犯人からの電話をテープレコーダーに録音。要求に従ってシヅ子のマネジャーが、指定された自由が丘の駅前で金を渡そうとした瞬間、張り込んでいた4人の刑事が犯人を取り押さえ逮捕しました。刑事たちは、駅前の街頭テレビで野球中継を見るふりをしていたそうです。
犯人は30歳の無職の男で、「6月に結婚予定だったものの失業し、金策に困り果てた末の犯行だった」と自供しました。当時、1か月の平均収入は約1万円。要求した6万円という金額が切実さを物語っています。
幸い娘に危害はなく事件は解決しましたが、
「母親の一番の弱みをついてこられたので、家に閉じこもったままおびえていました。」
とシヅ子は新聞記者に語っています。
それにしても犯人のこの男、よっぽど金に困っていたのでしょうか。懲りずに翌年の9月にも同様の手口でシヅ子を脅迫し、再び逮捕されています。
笠置シヅ子恐喝未遂事件の背後にあったものとは?
昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争を契機に日本は特需景気となり、昭和30年(1955年)には「神武景気」と呼ばれる好景気を迎えます。映画などの娯楽産業が急成長するにつれ、新聞や雑誌などのメディアは、さまざまな娯楽情報を伝えるようになっていきました。
シヅ子は自分の子どもを新聞や雑誌などに掲載することを厭わず、テレビにも出演させており、その中には私生活を伝えるものも含まれていました。
昭和24年(1949年)の雑誌『婦人生活』の『人気スターのママさん』と題した記事では、「ママ、今日は野球見に行きまちょ」「これから仲よく後楽園へ」という文章とともに、頬をすりよせ満面の笑みを浮かべる笠置親子の写真が掲載されています。
シヅ子以外にもソプラノ歌手・三宅春恵が自宅で幼い息子とピアノのお稽古をする様子や、女優・小暮美千代が自宅の広い庭の芝生で親子仲良くたわむれる様子など、スターの幸せそうな日常がグラビアを飾りました。
また「お宅拝見」という特集がしばしば組まれ、華やかなスターたちがグラビアで豪邸を披露しており、笠置邸への訪問記事も当時の雑誌や新聞に掲載されています。
この頃、「国民総飢餓状態」といわれた食糧難や住宅不足などの戦後の混乱が一段落し、世の中はようやく落ち着きを取り戻してきていました。「家庭電化時代」の兆しが見えはじめ、「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)が発売されるも、庶民にとっては高嶺の花。
雑誌で披露される有名人の豪邸や自家用車は、人々の羨望の的となると同時に、自分たちの貧しさをより実感させるものでした。
スターの豪華な私生活に妬みや嫉みの感情を抱く者もいたのでしょう。シヅ子の事件の翌年には、同じく芸能人・トニー谷の息子(6歳)が、身代金目的に誘拐される事件が起きています。
事件の起きた1950年代半ば、日本はすでに高度経済成長期の入り口に立ち、昭和31年(1956年)の経済白書には「もはや戦後ではない」と記されています。とはいえ貧富の差は激しく、社会への反感を募らせる者が少なくない時代でした。
笠置シヅ子恐喝未遂事件は、こうした社会の一端を垣間見せる出来事だったのかもしれません。
参考文献
砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』.現代書館
婦人生活社 [編]『婦人生活』3(8),婦人生活社,1949-08. 国立国会図書館デジタルコレクション
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