NHK朝ドラ『虎に翼』では、最高裁判所で尊属殺人事件の判決が下されました。
黒い法服を身にまとった15人の裁判官が居並ぶ大法廷で行われた、土居志央梨さん演じる弁護士・山田よねの渾身の弁論に、胸が熱くなった方も多いのではないでしょうか。
劇中の事件は実際にあった尊属殺人を元にしており、裁判では刑法200条の違憲性が争点となっていました。
この事件は、14歳のときから15年間にわたり、父親から夫婦同然の生活を強いられてきた女性が、自らの手で父親を殺害したというものです。
53歳の父親を殺害した女性は、当時29歳。
実父から性暴力を受け続け、5人を出産(うち2人は死亡)し、6度の妊娠中絶の末に不妊手術までさせられています。
一審の違憲判決、二審の合憲判決に続く上告審では、日本初の法令違憲判決を勝ち取っています。
今回は、尊属殺人の被告人を地獄から救い出した親子二代にわたる弁護士の奮闘と、最高裁判所大法廷で行われた審理について、詳しく見ていきたいと思います。
上告手続き後、病に倒れた弁護士
昭和46年(1971年)5月12日、東京高等裁判所で行われた第二審では、刑法第200条は合憲、被告人には懲役3年6月の実刑判決が下され、大貫大八(おおぬき だいはち)弁護士は、すぐさま上告手続きを取りました。
大八氏は、長年にわたって地獄のような生活を強いられてきた被告人に、新しい人生を歩んで欲しいと考えていました。
しかし、父親殺しは尊属殺にあたり、尊属殺人罪の規定によって実刑を免れません。通常の殺人罪を適用して執行猶予を付けるためには、尊属殺人の重罰規定である刑法200条の違憲性を明確にしなければならず、大貫大八弁護士は最高裁で徹底的に戦う決意を新たにしたのでした。
ところが、上告手続きをしてまもなく大八氏は病に倒れ、帰らぬ人となってしまいます。
志半ばで亡くなった大八氏の遺志を引き継いだのは、息子の正一氏でした。
大貫正一弁護士は、中学卒業後、働きながら定時制高校に通い、その後中央大学法学部に進学。
教師として働きながら猛勉強し司法試験に合格した苦労人で、弁護修習先の所長だった大八氏に気に入られ、大貫家の養子となりました。
父親から急遽バトンを渡された正一氏は、父の無念を晴らす覚悟だったそうです。
最高裁判所大法廷への回付と異例の口頭弁論
日本は三審制を採用していますが、最高裁判所に上告できる案件は限られており、大抵の場合、上告しても棄却され、法廷が開かれることはめったにありません。
令和3年度司法統計年報の上告受理申立の例を見てみると、申立2295件のうち上告が認められたのは29件。わずか1.26%となっています。
大貫正一弁護士が父親から引き継いだこの事件は、「上告できる案件」とみなされ、最高裁判所で審理されることになりました。
しかも、小法廷から大法廷に回付されたのです。
最高裁には、5人の裁判官からなる小法廷と、最高裁判所長官を含む15人の裁判官で構成される大法廷があります。
通常ほとんどの審理が小法廷で行われるのですが、憲法違反が疑われる場合は、事件を大法廷に移して審理することになります。つまり大法廷に移されたということは、尊属殺合憲の判例が破棄される可能性があることを意味しているのです。
さらに、口頭弁論開始の決定がなされたのも異例のことでした。
弁論とは、法廷で弁護士が上告理由を裁判官に直接訴えることで、最高裁が判決前に弁論を開くのは、高裁判決を逆転させる場合であり、ほぼ勝訴が決まったも同然と考えていいそうです。
大貫氏は勝算の手ごたえを感じつつ、万全の準備をして弁論へと臨んだのです。
「憲法とはなんと無力なものでありましょうか」胸を打つ口頭弁論
昭和47年(1972年)5月24日、一同が起立する中、黒い法服を身にまとった裁判官15人が順々に入廷し、裁判長の開廷の宣言の後、大貫弁護士の口頭弁論が始まりました。
大貫氏は、まずこの事件の特殊性と、人にあるまじき父親の非道を訴えました。
続いて、
「刑法第200条の合憲論の基本的理由となっている『人倫の大本、人類普遍の道徳原理』に違反したのは一体誰でありましょうか。」
と、尊属殺重罰規定の違憲性を述べ始めます。
「被害者の如き父親をも、刑法第200条は尊属として保護しているのでありましょうか。かかる畜生にも等しい父親であっても、その子は服従を要求されるのが人類普遍の道徳原理なのでありましょうか。本件被告人の犯行に対し、刑法第200条が適用され、かつ右規定が憲法第14条に違反しないものであるとすれば、憲法とはなんと無力なものでありましょうか。」
昭和25年(1950年)10月25日に最高裁が刑法200条の合憲判決を出して以来、毎年30件ほどの合憲判決が積み上がっていました。
その分、厚い壁を打ち破らなければ、彼女を救えない。気迫に満ちた大貫弁護士の弁論は、人々の心を揺さぶりました。
刑法第200条の合憲判決を覆した歴史的な瞬間
昭和48年(1973年)4月4日、最高裁で判決が言い渡されました。
「原判決を破棄する。被告人を懲役2年6月に処する。この裁判確定の日から3年間、右刑の執行を猶予する。」
15人の裁判官のうち14人が刑法200条は憲法14条に違反して無効と判断しました。
最高裁判所は通常の殺人罪である刑法199条を適用し、情状酌量して懲役2年6月、執行猶予3年の刑を下したのです。
これは、現行法の規定が違憲とされた初の事例でした。
大貫弁護士は父親の遺影をポケットに忍ばせ、この判決を聞いたといいます。
亡くなるまで、ずっと事件のことを気にかけていた父の無念を晴らすことができた瞬間でした。
ちなみに、判決文を読み上げたのは最高裁判所長官・石田和外(いしだ かずと)氏です。
『虎に翼』で松山ケンイチさんが演じる桂場等一郎のモデルで、昭和9年(1934年)の帝人事件の裁判では、「水中に月影を掬(きく)するがごとし」の名判決文を起案したことで有名な方です。
違憲無効となった刑法200条は条文だけが残されていましたが、平成7年(1995年)の刑法改正で削除されました。
大法廷違憲判決から22年の時が経っていました。
おわりに
判決が下った後も、大貫弁護士の元には女性から毎年年賀状が送られて来ていましたが、大貫弁護士はもう年賀状を送らないようにと伝えたそうです。
弁護士とやり取りがあると、どうしても過去の忌まわしい事件を思い出してしまう。昔のことはすべて忘れて、新しい人生を生きて欲しいという氏の優しい気遣いからでした。
その後、年賀状は来なくなり、彼女の消息については全く分からないということです。
『虎に翼』で借金のかたとして売られそうになった山田よねと、地獄の生活から抜け出すために獣のような父親を殺した美位子。どちらも孝を尽くすに値しない父親の犠牲になった子どもたちです。
子は親の従属物ではなく、親子であっても一個の人格として同等であり、封建的な「尊属殺重罰規定」が違憲無効となったのは当然のことでしょう。
しかし、時が移り社会状況が変容した現代にあってなお、私たちは過去の遺物にがんじがらめになってはいないでしょうか。自由が奪われていないか、不当な差別を受けていないか、今一度「憲法第14条」を胸に刻む必要があるのかもしれません。
【憲法第14条第1項】
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」
参考文献:谷口 優子『尊属殺人罪が消えた日』 筑摩書房
文 / 草の実堂編集部
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