エピローグ
今回は、奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)にある纏向古墳群の6基の古墳にフューチャーし、その中から邪馬台国女王・卑弥呼の墳墓を探ろうという記事の2回目です。
第一回はこちらです。
本気で卑弥呼の墓を探してみた! 纏向古墳群の6つの古墳 第1回 【大王墓の謎に迫る】
https://kusanomido.com/study/history/japan/yayoi/73034/
纏向古墳群の6基の古墳は、一般にいうところの前方後円墳です。しかし、その墳丘の形状から「纏向型(まきむくがた)前方後円墳」と呼ばれるもの。さらに「箸墓型(はしはかがた)前方後円墳」と呼ばれるものの2種類に分けられます。
邪馬台国が畿内なのか、九州なのか、はたまたそれ以外の地域なのか。もちろん、その議論の決着はついていません。その決着がつくのは魏が卑弥呼に贈った「親魏倭王」の金印や封泥などが出土しない限り、叶わないというのは誰もが認識するところです。
しかしながら、多くの学者・研究者が邪馬台国と卑弥呼の謎に挑むのは、邪馬台国という存在が我が国の古代史を解き明かすにあたり、とてつもなく大きな意味を持っているからではないでしょうか。
この記事は、纏向遺跡が邪馬台国と大きな関連があると考えて、論を進めていきます。
今回は、前回の「纏向型前方後円墳」の3基に続き、「箸墓型前方後円墳」の3基の古墳のうち、「纏向勝山古墳(まきむくかつやまこふん)」「東田大塚古墳(ひがいだおおつかこふん)」の2基について検証していきましょう。
卑弥呼の墳墓の可能性も捨てられない「纏向勝山古墳」
全長約100mの「纏向勝山古墳(まきむくかつやまこふん)」は、実に謎の多い古墳です。
土器による編年は、北側周濠内に投棄されたものが、西暦270年頃。後円部西周濠外縁内のものが、西暦180年頃と、約90年もの差があります。
しかし、墳形から判断すると、箸墓型前方後円墳であることから、西暦250年頃の築造に落ち着く可能性があるとも思われます。
築造年代もさることながら、同古墳の遺物として大きな注目を集めるのが、周濠くびれ部より多量に出土した、一部朱塗りが施されたヒノキ板材です。
この板材は年輪年代測定の結果、西暦210年頃と測定されました。
このヒノキ板材は、埋葬者の葬送儀礼のために、後円部に建てられた建築物の資材の可能性があります。儀礼後に壊され、周濠に破棄されたと推測されますが、問題は一部が朱色であったことです。
もし、この板材が本当に建物であったなら、「朱色の建物は、飛鳥時代以降の寺院建設から」といわれる従来の説を覆すものになるからです。
約1世紀もの隔たりがある出土土器、大量の朱塗りの板材など同古墳は、本当に謎の多い古墳といえます。
ただ、板材の年代測定、土器の編年から、西暦210年~250年の間の築造と考えておかしくないように思われます。そうなるとその被葬者の一人に卑弥呼が含まれる可能性はあるでしょう。
しかし、勝山古墳は後円部など未調査の部分が多く、謎の多くは今後の調査の成果に期待されます。
卑弥呼の墳墓と考える研究者も多い「東田大塚古墳」
「東田大塚古墳(ひがいだおおつかこふん)」は従来は、全長約100m弱の「纏向型前方後円墳」と見られていましたが、2007年の前方部の調査により、全長約120mの「箸墓型前方後円墳」と確認されました。
埋葬施設は未調査ですが、墳丘周辺から芝山産の安山岩の板材が少量採集されており、竪穴式の可能性があります。
出土遺物としては濠の中から布留0式期新相期の土器や木製品、外堤から壷棺、籠状製品が検出されています。
周濠内から出土する土器は、西暦270年に編年されるため、築造年代は3世紀後半とする説が強いようです。
しかし、この土器の編年は、前後15年~20年とされていること、後年に投げ入れられた可能性があることから、「東田大塚古墳」の築造はさらに遡る可能性があります。
実は、この古墳を「箸墓古墳」との関係から「卑弥呼の墓」と考える学者・研究者が少なくないのです。
「東田大塚古墳」の築造は、明らかに箸墓古墳に先行します。仮に、同古墳が西暦250年に築造され、「箸墓古墳」が西暦280年に築造されたとしたらどうでしょうか。
西暦250年というのは、卑弥呼の没年にほぼ一致します。卑弥呼が「東田大塚古墳」に葬られた後に、次代の女王あるいは大王が「箸墓古墳」に葬られる。そう仮定すると、実に自然な流れになるのです。
この築造編年は、桜井市教育委員会の橋本輝彦氏が、庄内0式から布留0式にかけての6期の土器形式により、「纏向石塚古墳」→「纏向勝山古墳」→「纏向矢塚古墳」→「纏向東田古墳」と組み立てています。
そして、両古墳は同じ形状の「箸墓型前方後円墳」なのです。全長120mの「東田大塚古墳」が卑弥呼の墓で、その死後、さらに勢力を盤石なものとした邪馬台国=初期ヤマト政権が、その同じ形状の墳墓を倍以上の大きさに築き上げる。そうした理由で、「東田大塚古墳」を卑弥呼の墓に見立てるのです。
しかしながら、「東田大塚古墳」は主要部が未発掘のため、考古学的な証明がほとんどなされていません。現在、東田大塚古墳は私有地のため、調査はもとより見学に立ち入ることもできません。
邪馬台国女王の墳墓としての可能性をもっている古墳として、詳細な調査を待ちたいものです。
さて、ここまで纏向古墳群の5基の古墳を紹介・検証してきました。残りの1基は、全長約278m・高さ29mの威容を誇る「箸墓古墳」を残すのみとなりました。
同古墳は、纏向古墳群の盟主墓であり、我が国最古の大王墓として、卑弥呼・台与・彼女らの男弟の墓と提唱する著名な学者・研究者が多い古墳です。
次回、第3回ではこの「箸墓古墳」についての詳細な紹介・検証を行います。ぜひ、ご期待ください。
※参考文献
石野博信著 シリーズ遺跡を学ぶ051『邪馬台国の候補地・纏向遺跡』新泉社 2008年12月
矢澤高太郎著『天皇陵の謎』新春文書 2019年5月
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