はじめに
丸に十字の家紋として薩摩国(現在の鹿児島県)の島津氏は知られている。
島津氏は後に九州を統一した戦国大名である。また、幕末では大久保利通・西郷隆盛など下級武士の台頭、明治時代には黒田清隆・松方正義など後に総理大臣を輩出する藩としても知られるようになる。
ここでは薩摩国の島津氏について、3つの時期に分けて取り上げたい。
まず、島津氏の出自について取り上げる。島津氏は鎌倉時代に始まると言われている。鎌倉時代から明治時代に至るまで約700年間同じ国を支配してきた数少ない大名である。鎌倉時代から室町時代までの島津氏、戦国時代の島津氏、幕末の島津氏の3つに分けて取り上げたい。
鎌倉時代の島津氏
島津氏は摂関家である近衛家の荘園の管理人(荘官)であったという記録が残っている。
荘官として九州に派遣され、薩摩国を中心に勢力を広げたと言われている。
平安時代が終わり、鎌倉時代になると鎌倉幕府の将軍源頼朝から薩摩国・日向国・肥後国の三国の守護職に任命される。この時の島津氏の当主は初代で、島津忠久である。島津忠久から700年間薩摩国を中心に支配することになる。
※伝島津忠久画像。絹本著色。京都の高山寺に伝えられていたもの
鎌倉幕府では、将軍を補佐する執権北条氏が比企能員(ひきよしかず)や和田義盛などの御家人を排除するようになる。島津氏もその影響を受けることになった。
当時侍所の別当であった比企能員が滅ぼされた事件が起こり、この事件をきっかけに肥後国と日向国の守護職を奪われることになった。
鎌倉幕府では、源氏の将軍が3題で途絶えると、1221年に朝廷が後鳥羽上皇を中心に倒幕に向けて動き出した。この出来事を承久の乱という。承久の乱では、当時の鎌倉幕府の執権であった北条義時が朝廷の反乱を鎮めたと伝えられている。
承久の乱において、島津氏は幕府方について活躍したと言われている。新たに守護職に任命されることはなかったが、若狭国(現在の福井県)・信濃国(現在の長野県)などで地頭職に任命された。
薩摩国以外で地頭職に任命された島津氏は薩摩国の島津氏の支族として伝えられている。なお、島津氏の支族については守護職・守護大名になることはなく、家臣として弛緩していたという記録が残っている。
室町時代の島津氏
(1)元寇後と室町時代初期の島津氏
※薩摩守護・島津久経らの兵船。 『蒙古襲来絵詞』後巻・絵15・第19紙
元寇は1274年の文永の役と1281年の弘安の役で、当時中国の王朝だった元が2回にわたって日本を攻撃したことを指す。
元は2回とも暴風雨で撤退せざるを得ない状況になり、鎌倉幕府の勝利に終わった。鎌倉幕府は元に勝ったものの、幕府の力が衰え始めたと言われている。1333年に足利尊氏が六波羅探題を攻撃したことで鎌倉幕府は滅亡した。当時、島津氏は後醍醐天皇の味方をして幕府の九州探題を攻撃した。そのことが評価され、鎌倉時代に奪われた日向国と肥後国を取り戻すことに成功した。
鎌倉幕府のあと、後醍醐天皇による建武の新政という天皇親政が行われていたが、武士から反発があり、後醍醐天皇が吉野に逃れた。その後、足利尊氏が北朝の天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府が始まった。その当時、島津氏の内部では薩摩国と大隅国で対立があり、その対立が室町時代中期まで続いていたと言われている。
島津氏の9代目島津忠国が守護大名になっても対立が続いていたが、その後安定的になったと言われている。
(2)室町時代中期の島津氏
国宝 大絵巻展 –
室町時代中期、将軍と管領の後継者争いがきっかけに応仁の乱が起こった。
応仁の乱は11年にわたって続き、京都が焼け野原になったことでも知られている。応仁の乱のとき、島津氏の当主は10代目島津立久で、立久は焼け野原になった京都から学者を呼び寄せた。桂庵玄樹を呼び寄せて薩南学派という学問を起こすことに成功した。
応仁の乱以降、再び島津氏内部での対立が続き、日向国と肥後国を抑えることができなくなり、再び奪われた。これらの奪われた国を取り戻すのは戦国時代になってからである。
おわりに
今回は薩摩国の島津氏について鎌倉時代初期から室町時代の応仁の乱に至るまでの変遷について取り上げた。
応仁の乱以降については、戦国時代の鉄砲伝来以降の島津氏が九州を代表する戦国大名になるまでの過程と、薩摩藩の藩主としての島津氏に注目したい。
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