
画像:ウィンストン・チャーチル public domain
第二次世界大戦でナチス・ドイツに立ち向かい、連合国の勝利に向けてイギリスを主導したウィンストン・チャーチル。
揺るぎない指導力と雄弁な演説で「歴史的英雄」と称され、広く知られています。
しかし、その輝かしい姿とは裏腹に、チャーチルの少年時代は挫折と苦悩に満ちていました。
成績は振るわず、多くの教師から期待をかけられることは少なく、父からの評価も厳しいものでした。
「落ちこぼれ」と見なされた少年が、いかにして世界史に名を刻む指導者へと成長したのでしょうか。
その転機となったのは、一人の教師との出会いでした。
今回は、同じく少年時代に挫折を経験したアドルフ・ヒトラーとも対比し、教育が人の運命にどのような影響を及ぼしうるのかを考えてみたいと思います。
名門校の「落ちこぼれ」

画像 : チャーチルが通った名門ハロウ校 cc Nigel Cox
13歳になったチャーチルは、名門として知られるハロウ校(イギリスの名門校で中高一貫の男子全寮制パブリックスクール)への入学を志しましたが、入学試験ではラテン語の成績が振るわず、通常なら合格は難しい状況でした。
父ランドルフ卿の名声も影響し、校長の裁量でラテン語などの古典語学を免除され、英語中心のクラスに振り分けられることで入学を許されました。

画像 : チャーチルの父・ランドルフ卿 public domain
チャーチルの成績は入学後も低迷し、劣等生と見なされ続けます。
ハロウ校卒業後も、大学進学は難しいと判断したチャーチルは、軍人養成の登竜門であるサンドハースト王立陸軍士官学校に進路を定めます。

画像 : サンドハースト王立陸軍士官学校 cc Nigel Cox
しかし、またもや学力が足りず、二度も不合格となりました。
三度目の挑戦でようやく合格を果たしますが、難易度の高い歩兵科ではなく、基準の低い騎兵科での合格でした。
このようにチャーチルは少年から青年にかけて、「落ちこぼれ」のレッテルを背負いながら、粘り強く道を切り拓いていったのでした。
人生の転機となった「文章の解剖」
「落ちこぼれ」のチャーチルの人生を変えたのは、名門ハロウ校で出会った英語教師ロバート・サマーヴェルでした。
古典語学が苦手だったチャーチルは、ラテン語やギリシア語といった優等生向けの科目から外され、もっとも基礎的な英語クラスに配属されます。
しかし、そこで施された指導こそがチャーチルの人生を大きく変えることになったのです。
サマーヴェル先生は「文章の解剖」と呼ぶにふさわしい独自の指導法を用いていました。
文章の一文を黒板に書き出し、主語・動詞・目的語・関係詞などを、黒・赤・青・緑などの色チョークで各要素を明確にしながら、あたかも精密機械の設計図を解析するかのように、文章の論理構造を可視化して指導したのです。
皮肉にもチャーチルが入学試験で大きくつまずいたことが、他の生徒よりも長くこのトレーニングに取り組む機会を与えたのです。
こうしてチャーチルは、英文の基本構造を徹底的に身につけていったのでした。
言葉の力が拓いた人生逆転の道

画像 : 騎兵連隊の少尉に任官した20歳のチャーチル public domain
サマーヴェル先生から受けた教育は、やがて目に見える成果として現れていきます。
21歳で軍人としてインドに赴任したチャーチルは、現地の情勢を綴った記事をイギリスの新聞や雑誌に寄稿し続け、大きな注目を集めました。
のちにそれらをまとめた著書『マラカンド野戦軍物語』は、若手将校の著作としては異例の高い評価と売れ行きを記録します。
25歳のときに勃発した第二次ボーア戦争では、従軍記者として南アフリカに渡りますが、ボーア軍に捕らえられ、プレトリア(現在の南アフリカ行政首都)の収容所へ送られました。

画像 : ボーア戦争時の従軍記者チャーチル public domain
しかし彼は単独で脱走し、約480kmを踏破してポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク・マプト)に到達。
この冒険体験と前線での記録を著した『ロンドンからレディスミスへ』も広く読まれ、チャーチルの作家としての名声を確立しました。※レディスミス(南アフリカ東部クワズール・ナタール州の都市)
かつて「文章の解剖」で鍛えた言葉の力は、チャーチルの作家としての成功を導き、やがて政治家としての歩みを切り拓く礎と原動力になったのです。
二人の歴史の分岐点?

画像 : アドルフ・ヒトラー public domain
ここで「もしも」という歴史の分岐点を考えてみましょう。
チャーチルと同時代を生きたアドルフ・ヒトラーも、少年時代は学校で劣等生と見なされていました。
13歳前後のヒトラーは、官僚になることを望んだ父親に反発し、オーストリアの実科学校では得意な歴史と地理を除いて学業に身を入れず、画家への夢を抱いていました。
父の死後、ヒトラーはウィーンの美術アカデミーの試験に挑みますが、二度にわたって不合格となります。

画像 : ヒトラーが受験したウィーン美術アカデミーcc Peter Haas
画家の夢は絶たれ、彼の生活は困窮を極めていきました。
その中で彼は、社会への怒りと過激な民族主義的思想を募らせていきました。
もしヒトラーにも、サマーヴェル先生のように内面の激しい情動を理解し、言葉と論理によって健全な方向へ導く恩師がいたなら、彼の人生もその後の世界も、まったく異なるものになっていたかもしれません。
さいごに
チャーチルは言葉の力で人々を勇気づけ、自由と民主主義のためにイギリス国民を導きました。
ヒトラーもまた言葉を武器としましたが、それはドイツ国民の憎悪を煽り、やがて世界を未曾有の大戦へと巻き込みました。
二人はいずれも少年期には「落ちこぼれ」と見なされましたが、健全に導く恩師の存在が、その後の歩みに少なからぬ影響を与えたといえるでしょう。
参考 :
『独学大全―絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』読書猿著
『マラカンド野戦軍物語』ウィンストン・S・チャーチル著
『My Early Life』ウィンストン・S・チャーチル著
文 / 村上俊樹 編集 / 草の実堂編集部
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