豊臣兄弟!

信長に追放されて非業の末路…美濃三人衆・安藤守就(田中哲司)の生涯をたどる【豊臣兄弟】

豊臣兄弟! 第7回放送「決死の築城作戦」でちらっと初登場を果たした安藤守就(田中哲司)。

斎藤龍興(濱田龍臣)に対して、複雑な表情を見せていました。

不穏な展開が予想される中、彼はどのような立ち回りを演じるのでしょうか。

そこで今回は、美濃三人衆の一人・安藤守就(あんどう もりなり)をご紹介。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の予習になれば幸いです。

美濃の土着勢力

画像 : 歌川国芳「太平記英勇傳 菜藤山城守秀龍入道乗三(斎藤道三)」

安藤守就は文亀3年(1503年)、美濃国北方城主(岐阜県北方町)を務める安藤守利(もりとし)の子として誕生しました。

兄弟には安藤頼郷(よりさと)郷重(さとしげ)郷氏(さとうじ)そして女子4名(金森長近室・西尾豊後守室・島木金兵衛室・改田伝右衛門室)がいます。

また、子供には郷良(さとよし)郷利(さととし)守吉(もりよし)定郷(さださと)賢郷(かたさと)郷純(さとずみ)郷忠(さとただ)ほか、女子3名(木下勘解由室・竹中半兵衛室・遠藤慶隆室)がいました。

ところで安藤家は表記ゆれか「安東」とも書かれ、また伝統的に伊賀姓を名乗ることがあったそうです。
守就は自身の受領名(非公式な官名)を伊賀守と言い、伊賀伊賀守(いが いがのかみ)と名乗ることもありました。

そんな守就ははじめ美濃国守護職の土岐頼芸(とき よりのり)に仕えます。しかし天文11年(1542年)に頼芸が斎藤道三(麿赤兒)によって追放されると、あっさり鞍替えしました。

斎藤家中においても存在感を示した守就は、稲葉良通(嶋尾康史)や氏家直元(河内大和)と共に美濃三人衆(西美濃三人衆)と呼ばれます。

ちなみに若き日の織田信長とも面識があり、天文23年(1554年)に勃発した村木砦の合戦(対 今川勢)では、斎藤家からの援軍として那古野城(名古屋城)に滞在してこともありました。

やがて弘治2年(1556年)に道三がその嫡男であった斎藤義龍(DAIGO)と争った長良川の合戦では、道三を見限って義龍に与します。

子が父を討つという不義に加担したのは、よほどの事情があったのでしょうか。

龍興を見限って信長に内応

画像 : 落合芳幾「太平記英勇傳 斎藤龍興」

父を討ち果たした義龍が永禄4年(1561年)に世を去ると、その嫡男である斎藤龍興を支えます。しかし龍興は一部の寵臣だけで独裁体制を敷き、美濃三人衆ら代々の重臣を遠ざけてしまいました。

いくら諫言しても聞き入れられなかったため、守就は娘婿の竹中半兵衛(菅田将暉)らと通謀し、永禄7年(1564年)2月6日に稲葉山城を攻略。龍興を惑わしていた斎藤飛騨守(ひだのかみ)ら6名を殺害します。

軍記物語などでは「龍興に猛省を促すために稲葉山城を乗っ取っただけであり、奸臣を討った後は速やかに返還した」という筋書きになっていますが、実際には奪還されてしまったようです。

その後は赦されて再び龍興に仕えたそうですが、よく龍興も赦しましたね。

しかし、一度離れた心が再び戻ることはなく、永禄10年(1567年)に信長が美濃へ侵攻して来ると、織田家に内応してその家臣となったのでした。

織田家臣として大活躍するが……

画像 : 連戦する安藤守就(イメージ)

信長に仕えた守就は永禄11年(1568年)の上洛戦をはじめ、元亀元年(1570年)の姉川合戦などに参陣して武功を重ねます。

しかし元亀2年(1571年)の長島一向一揆では負傷してしまい、同じ美濃三人衆であった氏家直元が討死してしまいました。

それでも戦い続け、天正元年(1573年)には槇島城攻め(対 足利義昭)や越前攻め(対 朝倉義景)、天正2年(1574年)には石山本願寺攻め、長島一向一揆などで武功を重ねます。

さらに天正5年(1577年)の加賀攻めでは柴田勝家(山口馬木也)への援軍として参陣、天正6年(1578年)には羽柴秀吉が指揮をとる中国攻めの援軍として出陣しました。

また同じ天正6年(1578年)には荒木村重(トータス松本)の討伐に参陣するなど、いいように使い回され……もとい八面六臂の大活躍だったようです。

しかし天正8年(1580年)8月、いきなり謀叛の疑いをかけられて追放されてしまいました。『信長公記』には

……先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり……

【意訳】前に信長が苦境に陥っていた時、それに乗じて野心を含んだ≒謀叛を企んだためである。

とだけ記されていました。

有能ではあったけれど、これまで度々主君を変えてきた経歴が、信長の疑心暗鬼を招いたのかも知れません。また西美濃という織田政権の中枢に近い土地をおさえておきたかった事情もありそうです。

さんざん使い倒された挙げ句に追放とは、まったく報われませんね。

混乱に乗じて挙兵するが……

画像 : 安藤守就の最期(イメージ)

織田家中を追放されてしまった守就は、しばらく不遇をかこっていました。が、そこへ千載一遇の好機が訪れました。

時は天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変によって信長が明智光秀(要潤)の謀叛によって横死を遂げたのです。

偉大なるカリスマを失った織田家中の混乱に乗じて、今こそ我らが北方城を奪還しようではないか……嫡男の安藤郷良(定治)と共に挙兵して北方城へ攻めかかりました。

しかし北方城を治めていたのは、かつて美濃三人衆の仲間であった稲葉良通。あえなく返り討ちに遭い、6月8日に一族は滅亡します。享年80。

かつての仲間と刃を交えての最期は、果たして本望だったのでしょうか。

終わりに

■安藤守就 / 田中 哲司
あんどう もりなり / たなか てつし

美濃三人衆の一人
小一郎・藤吉郎からの調略を受け、主君への忠義とのはざまで揺れることに。

※NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。

今回は美濃三人衆の一人・安藤守就について、その生涯をたどってきました。
紹介文から察するに、小一郎と秀吉からの調略で龍興を見限る展開が予想されます。

史実の活躍ぶりから、あちこちで姿を見ることになるのでしょう。
また林秀貞(諏訪太朗)らとともに追放される場面がどう描かれるのかも注目です。

※参考文献:
・木下聡『斎藤氏四代 人天を守護し、仏想を伝えず』ミネルヴァ書房、2020年2月
・谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年10月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部

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