
画像 : 曾我蕭白『雪山童子図』(1764年)public domain
「桃太郎」の童話から近年のアニメ「鬼滅の刃」まで、日本人にとって『鬼』はなじみ深い存在です。
「鬼(おに)」という言葉は、目に見えない存在を意味する「隠(おぬ/おん)」に由来するという説があります。
正体が分からず、人に災いをもたらすものとして、かつては疫病や災害も鬼のしわざと考えられることがありました。
現代のような「頭に角を生やした」鬼の姿は、中世以降、絵画や芸能を通じて次第に広く定着していきました。
能や浄瑠璃などでは、嫉妬や執念に囚われた人間が鬼に変貌する物語も語られるようになります。
能面の般若や、女の怨念を描く鉄輪などは、そうした鬼女のイメージをよく示す例でしょう。
今回は、幕末の浮世絵や江戸後期の随筆などに残された「鬼娘」の話を探ってみました。
夜な夜な出没して赤ん坊を喰らう鬼娘
生没年不詳の江戸時代の浮世絵師に、歌川重丸という人物がいます。
詳しい経歴は多く残されていませんが、一説には『浮世絵師伝』では初代・歌川広重の門人とされています。
その謎の絵師、重丸が慶応3年(1867)に手がけた作品に、2枚1組で刊行された彩色瓦版(錦絵風)の『鬼娘退治』があります。

画像:『鬼娘退治』(千葉大学附属図書館亥鼻分館所蔵) 出典: 国書データベース public domain
右側の絵には、『鬼娘退治』の題とともに、次のような文が添えられています。
此節、市中へ夜な夜な鬼娘とゆう者が出て、小児を取り食ひ、乱暴致し、甚難儀いたし候に付、さる御やしき様へ相願候処、早速御聞きすみあり、鉄炮組をもって町々を相廻り候処ろ、鬼娘に出会い、直様鉄炮にて打留候に付、人々安堵の思ひなしけり。
意訳 :
最近、市中に夜な夜な「鬼娘」が現れ、小児をさらって食べ、乱暴を働いていたため、人々は大変困っていました。そこで、ある「お屋敷さま」に願い出たところ、鉄砲組が町々を巡回し、鬼娘に遭遇します。そして、その場で鉄砲によって撃ち留めたため、人々はようやく安堵した。
絵には、鬼娘を鉄砲隊が囲み「器量はいいが恐ろしいやつだ」「生け捕りにして両国の見世物に出せば儲かる」といったセリフも添えられています。
この記述が実際の事件を伝えたものなのか、それとも完全な創作なのかは不明です。
しかしここまで具体的に書かれている点から、当時の人々がこの鬼娘をただの物語ではなく、どこか現実味のある怪異として受け止めていたことがうかがえます。
江戸後期に評判となった見世物の「鬼娘」

大田南畝像(鳥文斎栄之筆、東京国立博物館蔵)public domain
実際、江戸後期の見世物にも、鬼娘がいたという記録があります。
江戸後期、大田南畝の随筆『半日閑話』には、安永7年(1778)、両国広小路の見世物に鬼娘が現れ、「大に評判あり」と記されています。
その人気は相当なもので、橋の向こう側には「似而非物」、つまり贋物の鬼娘まで出たといいます。
大田南畝の『俗耳鼓吹』には「きぬをめくりの鬼のみせもの」という川柳もあります。
これは顔を被り物で隠した鬼娘が、それをめくって客に見せる様子を詠んだものと考えられます。
柳沢信鴻の『宴遊日記』にも「橋東に伯州より来し鬼娘の見せ物」とあり「どこかの国から来た異形の娘」のように紹介されています。
これらの記録を見る限り、少なくとも安永7年(1778)の両国広小路に、「鬼娘」と呼ばれる見世物が実在したことはほぼ確かでしょう。
もちろん本物の鬼だったわけではないでしょうが、贋物まで現れるほど評判になった異形の娘がいたことは、複数の記録からうかがえます。
正体ははっきりしませんが、人間の姿のまま「鬼」と呼ばれる領域に踏み込んだ存在だったのかもしれません。
参考:
第20回国際日本文学研究集会研究発表(1996.11.7) 鬼娘の系譜
日本怪異妖怪事典朝里 樹(監修)/氷厘亭氷泉(著/文 他)
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

























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