1876年3月3日、アメリカ・ケンタッキー州バス郡。
オリンピア・スプリングス近くの農場で、レベッカ・クラウチ夫人は庭先で石鹸を作っていた。
空は晴れ渡り、雨雲ひとつない。
ところが正午前、頭上から突然、何かが降ってきた。
肉である。
赤みを帯びた肉片が、まるで大粒の雪のようにひらひらと舞い落ちてくる。数分間にわたり肉は地面やフェンスに降り注ぎ、農場の一角を覆い尽くした。
のちに「肉の雨(Meat Shower)」として語り継がれることになる奇妙な事件の始まりだった。

画像:1876年3月、アメリカ・ケンタッキー州のクラウチ農場で起きた「肉の雨」をイメージした図(イメージ)
祈る人、味見する人
降ってきた肉片の多くは5センチ四方ほどで、なかには10センチほどの大きなものも混じっていた。
騒ぎを聞きつけて近所の男性が駆けつけたとき、フェンスにはまだ肉片がへばりついていた。降った直後は新鮮だった肉も、時間が経つにつれて徐々に干からび始めていたという。
ここからが、いかにも19世紀らしい。
現場に集まった男たちの中には、あろうことか落ちていた肉を口に入れる者もいた。彼らは「羊肉か鹿肉のような味がする」と語った。
その一方で、この不可解な現象を神からの啓示と受け止めて祈る者もいれば、新聞社へ駆け込む者もいた。
噂は農場の中だけにとどまらなかった。
やがてニューヨーク・タイムズまでが「肉がシャワーのように降った」という趣旨で報じ、片田舎の奇妙なニュースは瞬く間に全米へと広がっていったのである。
それは本当に肉だったのか
真っ先に浮上したのは「そもそも肉ではないのではないか」という疑いだ。
事件から数か月後、保存されていた検体を調べた科学者は、これは肉ではなく「ノストック」だと主張した。
ノストックとは水分を吸うとゼリー状に膨らむバクテリアの一種であり、条件次第では肉片のように見えることもある。

画像 : ノストック(緑色のゼリー状群体)Vibraison CC BY-SA 4.0
科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』もこの説を取り上げ、怪異の正体はあっさりと見破られたかに思えた。
だが、この説明には決定的な弱点があった。
クラウチ夫人が証言した通り、その日の空は晴れていたのだ。地面の微生物が水分を吸って突然「空から降ってくる」などという理屈には、どうにも無理がある。
そこで別の科学者たちが顕微鏡を覗き込み、より詳しい調査が行われた。
結果は藻でもゼリーでもなく「動物の組織」であり、肺、筋肉、軟骨の細胞がはっきりと確認された。
「降ってきたものは本当に肉だったのか」という問いに対して、当時の科学はかなり明確な答えを出したのである。
しかし、なぜ晴れた日に肉が降ってきたのか、という最大の謎は手つかずのまま残されたままだった。
ハゲワシの吐き戻し

画像:怪異として広まった「肉の雨」事件は、やがて顕微鏡と標本による科学的検証の対象となっていった。(イメージ)
同年、ケンタッキー州ルイビルの医師L・D・カステンバインが、『ルイビル・メディカル・ニュース』誌上でひとつの仮説を提示した。
「上空を飛んでいたハゲワシの群れが、胃の中のものを吐き戻して、それが風に流されて農場に降り注いだのではないか?」
突拍子もない説にも聞こえるが、辻褄は合っていた。
ケンタッキー州には、動物の死骸を食べるクロコンドルやヒメコンドルが生息している。そして彼らには、外敵から身を守るため、あるいは体を軽くして逃げるために、飲み込んだ肉を吐き戻す習性がある。
この前提に立てば、すべての点が見事につながるのだ。
・肉片に肺や軟骨が混じっていたのは、鳥が死骸をついばんだため。
・雨雲がない日に降ってきたのも鳥の仕業だった。
・特定の農場の一角だけに集中して落ちたのは、上空を通過する鳥の群れが吐き出した。
そのため、現在に至るまで、この「ハゲワシの吐き戻し説」がもっとも有力とされている。
もちろん当時の空を録画していた者はおらず、完全な証明は不可能だ。
それでも、現実に起きた現象をもっとも矛盾なく説明できる仮説であった。

画像:ヒメコンドル(Turkey Buzzard)の図版 public domain
150年目のDNA解析
事件の記憶は、150年が経った今も色褪せていない。
2024年にはバス郡歴史博物館で「肉の雨」の展示が始まり、ガラス瓶に収められた当時の肉片が公開された。トランシルヴェニア大学のムースニック医科学博物館にも、その標本が静かに眠っている。
また、当時の科学者が作成した顕微鏡用のスライド標本が、近年になってネットオークションに流出している。しかも出品者は古いラベルに書かれた「meat(肉)」を「meteor(隕石)」の略だと勘違いし、「ケンタッキー流星雨の標本」として売りに出していた。
地元の人々もこの奇妙な出来事を愛してやまない。
150周年を迎えた2026年2月には、バス郡で記念フェスティバルが開催された。
上空のセスナ機から事件の年にちなんだ1876個のビーフジャーキーがばら撒かれ、1世紀半の時を超えて「肉の雨」が再現されたのである。

画像:トランシルヴェニア大学に保存されている「肉の雨」標本をもとにしたイメージ。
一方、トランシルヴェニア大学のカート・ゴーデ(Kurt Gohde)教授らは、保存された肉片のDNA解析にも挑んだ。
しかし150年の間に検体は汚染されており、動物の種を断定するには至らなかった。
わずかに読み取れた塩基配列はヤギに近いものだったが、結論は出ていない。
参考 :
Bec Crew「Kentucky Meat Shower」Scientific American, 2014.
Cheri Lawson「150周年イベント報道」LPM/WEKU, 2026.他
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部
























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