「間引き」とは

画像:増上寺の千躰子育地蔵尊 SElefant CC BY-SA 3.0
「間引き」とは、生まれたばかりの乳児を育てず、命を絶つ行為を指す言葉である。
現代の感覚では到底受け入れがたいが、かつての農村では苦しい選択として行われることがあった。
江戸時代中期以降、農村の人口減少が問題となるなかで、幕府や諸藩は赤子の間引きを禁じ、養育を奨励する政策を打ち出すようになった。
それでも一部の地域では慣行として残り、赤子が生まれた直後に、育てるか、返すかの決断が下されていた。
言葉の由来と選別基準

画像 : 間引き イメージ
「間引き」とは本来、農業用語である。
発芽した苗のうち、育ちの悪いものや密集したものを抜き取り、残された苗に十分な空間と養分を行き渡らせて収穫を確保する、ごくありふれた作業を指す言葉だ。
やがてこの言葉は、乳児の命の選別にも用いられるようになった。
育てきれない子どもを取り除くことで「家」全体を生かすという発想が、農作業の論理と重なっていった。
また、間引きの選別基準もいくつかあった。
大きな影響を与えたものの一つが、性別である。
農作業の担い手として男子が重視される地域では、女子が間引きの対象になりやすかった。
さらに双子や三つ子、奇形や障害、早産で体が弱いなどの他に、親の厄年や丙午(ひのえうま)といった暦の条件もあった。
「丙午生まれの女子は夫を食い殺す」という俗信には何の根拠もなかったが、こうした迷信も、出産直後のごく短い時間のなかで赤子の運命を左右することがあったのだ。
なぜ「殺す」ではなく「返す」と呼んだのか

画像 : 間引きイメージ
こうした行為を、当時の人々は「殺す」とは言わなかった。
「子返し」「子戻し」「送り返す」など、いずれも命を断つのではなく、元の場所に戻すという意味を持つ言葉である。
その背景にあるとされるのが「七つまでは神のうち」といった観念である。
数え年7歳に達するまでの子どもは、まだ完全にこの世に属しておらず、あの世との境界にいる存在と見なされていたのだ。
親が育てると決めて共同体に迎え入れることで、初めて「人」になるため、それ以前に「返す」行為はこの世にまだ来ていない命を元に戻すことを意味した。
こうした境界線の置き方は当時の死亡率と無関係ではない。
歴史人口学者の鬼頭宏氏の研究によれば、江戸時代中期から後期の濃尾地方における乳児死亡率は、出生1000人に対しておよそ150〜190人で、地域によってはさらに高い推計もあるという。
つまり、少なくともこの地域では生まれた子の約15〜19%が、満1歳を迎える前に亡くなっていたのだ。
「返す」という言い方は、残酷さを覆い隠すためのものではなく、現代とは違う倫理体系があった。
間引きをした理由
間引きの理由として、まず挙げられるのは貧しさである。
重い年貢と限られた農地のもとで、子どもを養う余裕のない家はたしかに多かった。しかし、それだけが理由ではない。
当時の農村では、何よりも「家」を残すことが重んじられた。
子どもが増えすぎれば、一人あたりに分けられる土地や財産は少なくなり、いずれ家そのものが苦しくなる。
そのため間引きは、家の存続を見据えた人口管理としての側面もあった。
世間体や信仰も理由の一つである。
体に異常のある子は「家に災いをもたらす前触れ」と恐れられ、そうした子を産んだことで周囲から厳しく見られることもあった。
変化していった倫理観

画像 : 白河藩主・松平定信。禁令・経済支援・信仰による啓蒙など、あらゆる手段で間引きの抑止を試みた。 public domain
18世紀半ば以降、東北から北関東の諸藩では「赤子養育仕法」と呼ばれる出産奨励策が順次導入された。
二本松藩では延享2年(1745年)に始まり、子どもの数に応じて米や金銭を支給した。妊婦を登録させ、流産・死産があれば遺体を検分する仕組みまで整えた。
幕府が間引きを正式に禁じたのは、明和4年(1767年)である。触書には、出生した子を産所で殺す行為を「不仁の至り」と記した。
白河藩主・松平定信は、赤子養育金を支給する一方で、間引きの罪によって地獄に落ちる様子を描いた「受苦図」を村々に持ち回らせるなど、信仰に訴える形でも間引きの抑止を図った。
このようにあらゆる手段が講じられたが、間引きは止まらなかった。
間引きがなくなっていったのは、明治以降である。
戸籍制度が整うと、子どもは生まれた時点で国家に記録される存在になった。赤子の命は家の内側だけで扱えるものではなくなり、役所や警察の目が届くものへと変わっていった。
そうした変化の中で、間引きは「やむを得ない子返し」ではなく、明確な犯罪として見られるようになる。
倫理が法を変えたのではなく、まずは社会の構造が変わり、そのあとを追うように倫理もまた書き換えられていったのである。
江戸時代の親が間引きを行えたのは道徳心が欠けていたからではなく、現代とは異なる倫理の枠組みのなかで生きていたに過ぎないのだ。
参考文献 :
鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫、2000年
太田素子『子宝と子返し――近世農村の家族生活と子育て』藤原書店、2007年
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

























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