この世の中には「招き猫体質」と呼ばれる、特殊な性質を持つ人がいる。
招き猫体質とは、その人が暇そうな店に入るとなぜかその店が混み始めるという体質を指し、「人招き体質」や「サクラ体質」とも呼ばれる。
仙台四郎は、この招き猫体質の持ち主として世間に注目されて「福の神」として持てはやされ、やがては「人神」として信仰されるまでになった人物だ。
しかしこの仙台四郎という人物、幕末から明治時代にかけて実在していた人物であることは確かであるが、生前の人物像についてはよく知られていない。
そこで今回は、福の神として神格化された「仙台四郎」の生涯と、彼が神格化された経緯をたどっていきたい。
仙台四郎の生い立ち

画像:ぶらんど〜む一番町商店街 旧仙台市一番丁 wiki c 掬茶
仙台四郎は1854年ごろ、安政元年ごろに、仙台城下の北一番丁勾当台通付近、通称「櫓下」にあった芳賀家の四男として生まれたとされる。
仙台四郎(旧字体で 仙臺四郎とも)という名は「福の神」としての通称で、本名は芳賀四郎、または芳賀豊孝と伝えられている。
四郎の生家である芳賀家は、初代仙台藩主である伊達政宗の代から砲術師として伊達氏に仕えていた由緒正しき家系の鉄砲鍛冶屋だった。
ちなみに芳賀家は現在も、仙台を主な拠点として花火や鉄砲を扱う事業を営んでいる。
四郎が生まれた頃、芳賀家の長男である10歳上の兄は健在だったが次男と三男は早逝しており、新たに生まれた四郎がまた男の子であったことを心配した両親は、四郎に女の子の着物を着せて大切に育てたという。

画像:仙台四郎の人形 wiki c ジダネ
四郎には知的障害があり、人との会話はほとんどできなかった。
先天的な障害だったという説や、幼児期に麻疹にかかったことが原因という説、7歳頃に川に転落して意識不明になったことが原因とする説などあるが、真相は定かではない。
発語は時折「バアヤン(婆や)」と言うのみで、もう少し会話ができたという説もあるが、近所の人々からは「しろばか(四郎馬鹿)」と呼ばれていた。
しかし常にほがらかに笑っていて、誰かに迷惑をかけることはなかった。
仙台の繁華街を歩き回るようになっていた20代の頃には街の有名人となっており、仙台誌の番付表の「ばか部門」で1位に選ばれたり、子どもや心無い大人から揶揄されたりいじめられたりすることもあった。
しかし、それでも子どもが好きで小さい子を可愛がり、いつも機嫌よくニコニコしながら仙台の街中を歩き回っていた。
不思議なことに四郎が立ち寄った店は客が増えて大繁盛するようになることから、やがて人々は四郎を「福の神」として厚遇するようになっていった。
さらには商売繁盛のご利益だけでなく「四郎に抱かれた子供は丈夫に育つ」との噂も広まり、市中を飄々と徘徊する四郎の周りには多くの人が集まったという。
仙台市長よりも有名といわれた生きる福の神

画像:朝日神社(仙台市青葉区上杉)に飾ってある仙台四郎の絵(2015年7月)現在行方不明(2021年) wiki c ChampagneFight
四郎は支払いのことなど考えもせずに店のもてなしを受けていたが、四郎の家族がそれを良しと考えるはずもなく、実際は後から代金を支払いに回ることもあった。
店側からすれば、四郎はもてなせばもてなすだけ後から金が入ってきて、おまけに他の客も増えていく上客であった。
だが四郎は、呼ばれる店全てに入っていたわけではない。
噂が広まるにつれて四郎に声をかける店は増えていったが、気に入らない店には断固として入らない頑固さもあった。四郎が入店を拒んだ店は、その多くが長続きせず廃業していったとも言われる。
この頃には、「仙台市長の名は知らなくても四郎を知らない人はいない」と言われるほどの有名人になっていた。

画像:宮城県仙台市、仙台駅舎。2代目のもので、1894年建設、1945年に空襲で焼失した。 public domain
1887年末になると仙台に東北本線が通り、仙台駅と塩竃駅が開業した。
四郎は鉄道をいたく気に入って、仙台駅の停車場に毎日通うようになった。
時には通りすがりの人に乗車賃を恵んでもらい、宮城南部の白石や福島の白河、山形まで乗車することもあったが、帰りの乗車賃を持っていなかったので降車駅の駅員が困り果てているという記事が、仙台の地方紙に掲載されたこともあった。
四郎が「商売繁盛の福の神」と歓迎されながら街を歩き回っていた明治中期頃、仙台は幕末から続いていた情勢不安と不景気をようやく乗り越え、活気づいてきた時期だった。
仙台を中心とする南東北のマスメディアは、四郎を面白おかしく取り上げて「福の神」として持ち上げた。
こうした景気向上の勢いに乗って、四郎の「福の神」伝説は広まっていったのだ。
四郎没後にさらに広まった福の神伝説

画像:仙台四郎 public domain
今でも世間に出回っている唯一の四郎の写真は、写真師の千葉一という人物が、写真館開業前の1885年頃に福島で撮影した写真だと伝えられている。
放浪癖のあった四郎の最期についても、はっきりとは分かっていない。
通説では1902、3年頃に福島の須賀川で死去したとされるが、徘徊中に行方不明になってしまったという説もあり、海を渡り韓国の釜山港を漫遊しているという記事が新聞に掲載されたこともある。
四郎の写真を撮影した千葉は、大正初期に福島から仙台に移住して、千葉写真館を開業した。
その写真館の商品として、千葉が焼き増しした四郎の写真を「明治福の神(仙臺四郎君)」として売り出した時から、四郎は「仙台四郎」と称されるようになった。
千葉が売り出した四郎の写真は、大正の戦後恐慌の不景気に苦しむ人々の、心のよすがとなった。
しかし大正から昭和にかけては主に仙台市中の流行神だった「仙台四郎」が、再び広く注目を集めたのは、四郎が没したとされる年から90年以上を経た1993年のことだった

画像:トナカイに曳かれたそりに乗るサンタクロース姿の仙台四郎のエアブロー人形(2016年12月)。注連縄(神道)が飾られた三瀧山不動院(仏教)のクリスマス(キリスト教)装飾に民間信仰(人神)の仙台四郎が用いられている wiki c ChampagneFight
1993年はバブル崩壊の影響が日本中で顕在化した時期であり、今では日本経済の「失われた30年」の始まりの年ともされている。
その年、朝日新聞社が刊行していたアサヒグラフという雑誌に「仙台四郎」の記事が取り上げられたのだ。
数年前までの好景気から一転して、積み上げた石が瞬く間に崩れ落ちていくような不況に陥った人々が、なんとか「仙台四郎」のご利益にあやかろうとした。
仙台市観光課などにはアサヒグラフの記事を見た人からの「仙台四郎」の写真が欲しいという問い合わせが殺到した。
このブームを受けて、その数年前から四郎を商売繁盛・家内安全の福の神として祀っていた三瀧山不動院が、写真に加えて人形などの「仙台四郎」グッズを増産して対応することになったという。
現代の仙台四郎ブーム

画像:仙台初売りを知らせる幟(2012年12月)。2002年より仙台初売りのイメージキャラクターとなっている。 wiki c ChampagneFight
「仙台四郎」を福の神とする信仰は、今でも時折ブームを巻き起こしている。
写真が飾るものではなくデータで持ち歩くものになった現代では、「仙台四郎」の写真をスマホの待ち受けにすれば運気が上がり、金運や恋愛運、人気運に恵まれるという噂が広まり、若者がこぞって待ち受けにしていた時期もある。
しかし、生前の四郎は欲目だけで自分を引き入れようとした店を嫌い、決して入ろうとはしなかった。
そういった店は廃業していき、逆に四郎に気に入られて繁盛した店は、福の神として名を馳せる前から障害を持つ四郎を邪険にせず、温かくもてなしていたという。
四郎自身が仙台の人々から親しまれ、食べ物や着物、鉄道の乗車賃を恵んでもらえていたのも、四郎がどんな時でもいつもにこにこ笑っていて、周りの人を優しい気持ちにさせていたからだ。
それならば「仙台四郎」を福の神にしたのは四郎の「招き猫体質」だけではなく、会話ができず所持金もない四郎を温かく受け入れた、先代の街の人々の真心があってのことと言えるだろう。
「仙台四郎」のご利益にあやかりたいと願うなら、写真を待ち受け画面にするだけではなく、日常で人と相対する時の心持ちを見直す必要があるのかもしれない。
参考文献 :
丘 修三 (著), 村上 豊 (イラスト)『福の神になった少年―仙台四郎』
三瀧山不動院公式HP
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

























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