幕末明治

【日本史上最期にして最大の内戦】 西南戦争・田原坂、吉次峠の戦い

映画ラストサムライの世界観

西南戦争・田原坂、吉次峠の戦い

画像 : 西南戦争 鹿児島暴徒出陣図

西南戦争は、明治10年(1877年)の2月19日から9月24日までの凡そ7ケ月間に渡って行われた、日本史上最期にして最大の内戦でした。

征韓論を巡る政争から政府を退き鹿児島に帰郷していた西郷隆盛を旗頭に、計約3万ともいわれる薩摩士族を中心とした兵が、新政府軍と九州各地で激しい戦闘に及びました。

多数の銃弾が飛び交った近代戦としても知られる戦いでしたが、最大の激戦地となった田原坂・吉次峠の戦いにおいては、集団での白兵戦が行われた最後の戦いでもありました。

正にトム・クルーズ・渡辺謙が主演したハリウッド映画「ラストサムライ」で描かれた世界観そのままに、旧来からの侍と、徴兵された正規軍による新旧兵力の対決でもありました。

加藤清正が整備した道

※田原坂付近の風景

田原坂は、現在の熊本市と玉名市とを結んでいる幅約4m、長さ約1.5kmの緩やかな坂道でした。

この坂を巡って明治10年(1877年)3月に両軍の壮絶な戦闘が行われたのです。

このとき熊本にあった政府軍は熊本城に籠城し、西郷軍はそれを包囲していました。政府軍は北から部隊を送り、熊本城を救援しようと大砲を牽引し、進むことのできる田原坂へと兵を進めます。

これを阻止しようとした西郷軍との間で繰り広げられた戦闘が、西南戦争最大の激戦となった「田原坂・吉次峠の戦い」です。

この戦いでの両軍の戦死者数合計は約3500人におよび、西南戦争全体の四分の一に相当したと伝えられています。

因みに、熊本城へと続くこの坂道は、熊本城を築いた加藤清正が北からの敵の侵攻を考慮し、いざというときの防衛を容易にするために整備した道でした。

期せずして西郷軍がこの利点を利用して、政府軍を迎え撃つことになったのです。

示現流の白兵戦

田原坂・吉次峠の戦いでは、猛烈な銃火器での撃ち合いが行われ、政府軍だけでも一日で60万発とも言われる銃弾・砲弾を放ったと言われています。

銃弾の応酬によって、両軍が発射した弾丸が空中でぶつかり合うほどでした。

しかしそうした銃火器を用いた戦闘だけではなく、西郷軍が使用していた旧式の小銃は雨が降ると使用できなかった事もあり、刀を用いた大規模な白兵戦となったのです。

西郷軍は士族で構成されており、示現流を始めとする剣術の修練を積んだ武士たちの集団でした。

彼らが示現流特有の甲高い声を発しながら斬り込んでくるのに対し、政府軍の兵士たちは小銃に取り付けた銃剣で立ち向かうことになります。

しかし政府軍の兵士たちは徴兵された平民が中心であり、剣術の心得はなく軍隊で銃剣術の訓練を受けたに過ぎませんでした。

このため、兵士の中に白兵戦による恐怖が蔓延し、全体の士気にも大きな影響を与えたのです。

警視抜刀隊の選抜

西南戦争・田原坂、吉次峠の戦い

※抜刀隊を描いた浮世絵

西郷軍による白兵戦に対抗するため、政府軍では剣術の心得のある警視隊(後方支援に当たっていた実質上の治安維持・警察任務を担った隊)の中から人員を選抜し「警視抜刀隊」を臨時に編成しました。

西南戦争の実質的指揮を執った山県有朋は、徴兵制を推進した人物です。

これに逆行する士族の力・剣術を借りた隊を編成することは、政府軍の在り方を否定する事にも繋がりかねないものでした。

しかし西郷軍への対抗上、止む無くこれを許可し敵と同じく薩摩士族が多かった「警視抜刀隊」が設けられたのです。

西南戦争の分岐点

皮肉なことに薩摩藩士を中心として構成された警視抜刀隊は、企図した通り西郷軍との白兵戦でも譲らずに奮闘しました。

この奮闘により、最終的には装備に勝る政府軍によって西郷軍は徐々に劣勢となっていきます。
政府軍は更に別動隊を用いて田原坂を迂回、背後からの攻撃を実施して西郷軍を敗走させました。

結果的にこの戦いが分岐点となり西南戦争自体の勝敗が決することになりました。

以後の西郷軍は南九州へと押し戻されて敗退を重ね、西郷は自刃へと至ります。

しかしその勝敗に大きな貢献をしたものが、政府が進めた廃刀令や徴兵制に反する「薩摩士族の剣」だったことは歴史の皮肉と言えるものでした。

 

  • Xをフォロー
  • Threadsをフォロー
好きなカテゴリーの記事の新着をメールでお届けします。下のボタンからフォローください。

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

    • 名無しさん
    • 2022年 7月 27日 8:54pm

    ラストサムライの世界観は違うと思うな!だって大村益次郎が指揮した部隊との闘いだよ!

    0 1
    0%
    100%
  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 楠本イネについて調べてみた【日本初の女性産科医】
  2. 森鴎外 〜軍医としても頂点を極めた才人
  3. 明治・大正時代の洋菓子について調べてみた
  4. 「琉球は中国のもの」は本当か?日本と中国の”琉球王国”歴史認識の…
  5. 「日露戦争の英雄」乃木希典とはどのような人物だったのか?
  6. 幕末、徳川の女性たちはどのように生きたのか【篤姫、和宮、一条美賀…
  7. 「人斬り半次郎」と呼ばれた 桐野利秋の実像
  8. 東京駅の謎 「なぜ日本初の駅とならなかったのか?」

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

大友宗麟の「国難レベルの女遊び」をやめさせた、立花道雪の「天岩戸作戦」

立花道雪とは立花道雪(たちばなどうせつ)とは、九州の戦国大名・大友宗麟の片腕・軍師として…

尾高惇忠と富岡製糸場 前編 「渋沢栄一の従兄弟で義兄で学問の師」

尾高惇忠とは今からおよそ150年前の明治5年10月、日本近代化の象徴とも言える工場が操業…

秀吉死去後、豊臣家を守り続けた加藤清正 【二条城の会見】

虎退治で名を馳せた戦国の猛将 加藤清正豊臣秀吉子飼いの武将として、天下統一を最前線で支えた。…

東大寺二月堂はなぜ二月なのか?

奈良の大仏さまで有名な東大寺では、毎年3月になると二月堂でお水取り(修二会)が行なわれる。…

家康の嫡男・徳川秀忠。「秀」と「忠」はそれぞれ誰から貰ったの?【どうする家康】

関ヶ原に遅れてきた二代将軍徳川秀忠 とくがわ・ひでただ[森崎ウィン もりさきうぃん]…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP