幕末明治

西郷隆盛と勝海舟はいかにして江戸無血開城を成し遂げたのか?

西郷隆盛と勝海舟はいかにして江戸無血開城を成し遂げたのか?
※西郷隆盛・勝海舟

西郷隆盛のエピソードは多いが、その功績として外せないのが「江戸無血開城」だろう。

このことは、幕府軍だけではなく、江戸城下の市民の命も救った。しかし、勢いに乗る新政府軍に対し、どのようにそれを成し遂げることができたのだろうか?

その功労者である西郷隆盛、勝海舟の働きについて調べてみた。

大政奉還


※徳川慶喜

慶応3年(1867年)10月大政奉還により政権を朝廷へ返上した15代将軍徳川慶喜は、討幕派により将軍職だけでなく官職や領地の返上まで決められてしまった。

これにより、慶喜はいったん大坂城に退くが、そのことを決めた小御所会議(こごしょかいぎ)の決定が揺らぎ始めたため、また慶喜も諸外国の公使に対して外交権の継続を宣言するなどの動きを見せたため、倒幕派と旧幕府の完全な決着は付いていなかった。

しかも、大政奉還の直前に発令された討幕の密勅が、大政奉還後も一部の浪人には聞き入れられずにいた。「幕府方の人間を攻撃せよ」というものである。命令は中止されたが、江戸薩摩藩邸の攘夷派浪人は命令を無視して工作を続けていたのだ。

このことを知った大阪城の強硬派は激昂し、薩摩を討つべしとの主戦論により慶応4年正月3日鳥羽(京都市)で薩摩藩兵と衝突し、戦闘となった(鳥羽・伏見の戦い)。

この戦いで朝廷は薩長兵側を官軍と認定して錦旗を与え、幕府軍は朝敵となってしまう。

慶喜は6日、軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で海路江戸へ逃走した。ここに鳥羽・伏見の戦いは幕府の完敗で終幕した。

新政府と旧幕府の動き


※有栖川宮熾仁親王

江戸に到着した慶喜は、江戸城西の丸に入り今後の対策を練った。
西は駿府から北は松本までの警備を命令、城内では徹底抗戦か徹底恭順かに意見が分かれる。

その際に陸軍総裁として列席していたのが勝海舟であった。

この時点では、庶政を取り仕切る会計総裁・大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官となり、恭順策を実行に移していくことになる。

新政府側も徳川家(特に前将軍慶喜)に対して厳しい処分を断行すべきとする強硬論と、新政府が政権を握ったいま、処分は穏便に済ませるべきとの両論が対立していた。そのなかでも、薩摩藩の西郷隆盛などは強硬論であり、大久保利通宛ての書状などで慶喜の切腹を断固求める旨を訴えていたほどである。

新政府はすでに東海道・東山道・北陸道の三道から江戸を攻撃すべく、新政府総裁の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)が東征大総督に任命され、江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。

強硬派の西郷隆盛も参謀として組み込まれることになる。
この「東征軍」は京都を進発して、江戸まで進撃することが目的だった。

交渉と準備


※山岡鉄太郎(鉄舟)

駿府まで進撃していた新政府軍に対し、旧幕府方は決戦回避の道を模索するようになる。

イギリス公使 ハリー・パークスが内乱による日本市場の混乱を恐れていることを勝が知ると、パークスから新政府への圧力を掛けさせた。一方で、謹慎中の徳川慶喜を護衛していた山岡鉄太郎(鉄舟)が慶喜の考えを伝えるべく駿府に赴くこととなった。これも、勝の絶妙な策略である。しかし、山岡は西郷を知らなかったこともあり、まず陸軍総裁勝海舟の邸を訪問する。山岡を高く評価した勝は、西郷への書状をしたためた。勝と西郷はすでに旧知の仲であり、滞りなく西郷に面会できるようにとの配慮である。

山岡は駿府に入ると西郷との会談を求める。西郷は勝からの使者と聞いて山岡と会談を行い、山岡の真摯な態度に感じ入り、交渉に応じた。

西郷からの開戦回避のための条件は、旧幕府の一切の権力、武力の放棄を求めるものだったが、唯一「徳川慶喜の身柄を備前藩(岡山県)に預けること」という点において山岡は譲らなかったという。君主を他藩に預けろというのは家臣として受け入れられるわけがない。問答が続いたが最後には西郷が預かる形で保留となった。

一方、江戸では勝がいざという時の備えのために焦土作戦を準備していたという。東征軍側が江戸を攻撃してきた場合、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防いで焦土と化す作戦である。いったん火災が発生した後はあらかじめ江戸湾に集めておいた雇い船で、避難民を千葉へ非難させる計画だった。

渡米の経験があり、欧州での戦いの記録にも精通していた勝らしい計画である。

勝・西郷会談


※会見之地の記念碑

山岡の事前交渉があったこともあり、徳川家側の最高責任者である会計総裁・大久保一翁、陸軍総裁・勝海舟と、大総督府下参謀・西郷隆盛との江戸開城交渉は、田町(東京都港区)の薩摩藩江戸藩邸において2回行われた。東征軍の江戸総攻撃は慶応4年(1868年)3月15日に決定していたが、交渉は3月13日・14日というギリギリのタイミングで行われたのである。

第一回の交渉は、以前山岡に提示された慶喜の降伏条件の確認のみで、あっさりとしたものだった。本番は翌日の第二回交渉である。
ここでは、山岡が西郷に提示された降伏条件に対する勝の回答が提示された。しかし、その内容はゼロ回答といえるものだったのだ。

徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。命に関わる処分者は出さない。江戸城を明け渡しに際しては旧幕府側に対して寛大な対処を望むというものであった。到底、攻められる側が提示する条件ではない。しかし、西郷は翌日の江戸城進撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約した。

江戸城無血明け渡しが決定した瞬間である。

決着の真相


※ハリー・パークス

強硬派の西郷が勝の条件を呑んだ理由はふたつあった。

ひとつは、英国公使ハリー・パークスからの徳川家温存の圧力があり、駿府で新政府側が進行を止めたこと。この間に山岡が勝の命令で西郷と面会できたことが大きかった。勝も事前に交渉の中身がわかれば対策も練れる。パークスはすでに勝敗が決しているこの戦いで、無抵抗の徳川慶喜を攻撃することは万国公法に反するとして激昂したという。ただし、この話しには決定的な資料がなく、あくまで一説である。

しかし、もうひとつの理由は間違いないものだ。

それは西郷の勝への信頼である。西郷にとって勝は、幕府の存在を前提としない新政権の構想を教示された恩人でもあった。その勝が、腹を割って話すというのであれば、西郷もそれに応じないわけにはいかない。しかも、勝はいざとなれば江戸に火を放つという策があったため、西郷に対して下手に出る必要もなかった。その勝の決意に西郷が動かされたのだ。

事実、強硬論から寛典論に180度転じた西郷が、同じく強硬派だった板垣や京都の面々にその政策転換を説明している。西郷にとっても、江戸攻撃がいかに無用な混乱を招くか勝に諭された思いだった。

最後に

2018年、NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公である西郷隆盛。
その生涯は幾度となくドラマになり語られたが、やはり見せ場のひとつが勝との交渉の場面である。それは決して西郷の手柄ではなく、新政府にとっては苦渋の決断だったに違いない。

しかし、江戸を守ったのは間違いなく西郷と勝の絆だった。

(西郷隆盛については「西郷隆盛が島流しになった理由について調べてみた」「西郷隆盛が西南戦争でなぜ戦ったのか調べてみた」などを参照)

 

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コメント

    • いの
    • 2018年 5月 03日

    勝海舟を研究している者です。
    江戸無血開城のカギは西郷の海舟に対する「信」にあった、とのご意見、私も全く同感です。
    江戸無血開城にはおもに、西郷、勝、山岡(鉄舟)、大久保(一翁)が深く関わりました。これらの人物は
    みな、人格の優れた高潔な人物ばかりです。西郷、勝、山岡についていえば、それぞれに禅や剣で人格を
    深く磨いた人物であり、大久保も「大越」と呼ばれたほど、幕府の外からも深く信頼された人物です。
    西郷は一説によると「勝がいるから、自分は行く」と言って軍を引き連れ江戸に向かったそうですが、
    まさにそういう事であったと思います。実は西郷も、まず自分が最初に江戸に向かって、江戸での戦争を
    抑えようとしていたのでは?(彼の平和的訪韓の場合と同じ原理?)ともあれ、こういう人物は敵・味方と
    いう小さな範疇を大きく飛び越えた人物ばかりです。こういう人物たちが命がけで対話して結実したのが
    江戸無無血開城でしょうか。もう一点付け加えるならば、海舟ほど、これまで誤解され、その人格が歪曲さ
    れた人物はいないでしょう。現在でもその傾向は続いています。なぜか、それは常に、かれが「正統」を貫き、
    それがしばしば反体制的となったからでしょう。彼は、戦争のマイナス面を徹底的に分析した男でした。
    官軍との闘いにも、日清戦争にも彼は反対しました。なぜか。彼がある人物に語った言葉が、その理由を
    明らかに語っています。「民は税を払って国に尽くしている。なぜ戦争をしてその民を苦しめるのか!」。
    これが海舟の心の核心を語っています。こういう海舟の心を知らずして、臆病者やら卑怯者と海舟を
    誹謗中傷した人々がいかに多いことか!

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