幕末明治

明治維新後の勝海舟 【福沢諭吉からは嫌われていた】

忠臣か変節漢か

明治維新後の勝海舟

※勝海舟

勝海舟(かつかいしゅう)と言えば坂本龍馬の師であり、幕臣として西郷隆盛との歴史的な会談を成功させて江戸城の無血開城を実現した人物としてよく知られています。

しかしその癖のある性格故か批判にさらされることも多く、有名なところでは福沢諭吉が大の勝嫌いであり、幕臣でありながら易々と江戸城を明け渡したことや、維新後は明治新政府に出仕したことなどを痛烈に批判されています。

幕臣としての勝は最期まで徳川幕府に忠義を尽くし、徳川慶喜の赦免に奔走した人物でもありました。

そんな勝の維新後はどのような感じだったのでしょうか?

新政府での勝海舟

勝は慶応4年7月に水戸で謹慎していた慶喜が駿府へと移された後、新政府との折衝の窓口となりました。

同年10月自らも駿府へ移ると大久保利通を介して駿府藩との交渉を担いました。

勝は明治2年(1869年)7月に新政府から外務大丞に任じられましたが翌8月には辞し、同年11月に今度は兵部大丞に任命されるも、これも翌明治3年(1870年)6月には辞しています。

明治5年(1872年)3月には新政府の要請で東京へ戻り、赤坂の氷川神社の近くに居住、この地で晩年を送ることになりました。

同年の5月には海軍大輔に任じられ、さらに翌年の明治六年政変で西郷らが下野したことで10月には海軍卿に任じられました。

しかし明治7年(1874年)に行われた台湾への出兵に抗議して出仕を拒否し、翌明治8年(1875年)4月には元老院議官へと移された後、同年11月にこれも辞して新政府を去りました。

民主主義と勝

その後、枢密顧問官に推された勝は、明治21年(1888年)に開始された大日本帝国憲法制定に伴う審議に加わったものの、一言も発しなかったと伝えられています。

これは外国の憲法の焼き直しとなるのではないかという疑念を持っていた勝が、伊藤博文らを中心とした作成メンバーにその意がないことに安堵したためと伝えられています。

尚、坂本龍馬にアメリカの選挙などの民主主義を伝えたとされる勝ですが、大日本帝国憲法発布前に日本国内で隆盛を極めた自由民権運動などには、あまり関心を示さなかったと伝えられています。

主君である慶喜の救済に奔走した勝の忠義を考えると、イデオロギーとしての民主主義をどこまで信奉していたのか定かではありません。

勝の最期

明治維新後の勝海舟

画像 : 徳川慶喜

勝はその後も慶喜の名誉回復に努め、30年を要しながらも明治31年(1898年)に明治天皇に慶喜との拝謁を実現させました。

このとき慶喜は公式に赦免せれて公爵の地位を与えられ、徳川宗家と別に徳川慶喜家を新興することも許可されました。

勝は旧幕臣への支援を続ける一方で、西南戦争で逆族として生涯を終えた西郷の名誉回復にも尽力し、今の上野にある西郷の銅像の建立にも関りました。

勝は明治32年(1899年)1月、脳溢血によって倒れると享年77でそのまま息を引き取りました。

勝のアジア観

勝は日本の海軍の創始者ともいえる人物でしたが、新政府が行った初の対外戦争・日清戦争には反対していました。

清の艦隊司令長官を務めた丁汝昌が、敗戦の責任をとって自決したことに追悼の意を新聞に寄せています。

そして清に勝利したことを喜ぶ向きには、安易に列強の植民地政策を真似をする日本を戒め、中国を卑下する風潮を否定すると、むしろアジアの国として共同で列強に立ち向かうことを提言していました。

その後、日本が三国干渉を受けせっかく手にしたと思った権益を失う破目になることも予測しており、その意味では西郷の思想に近かったとものと思われます。

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 幕末政治史をリードした陰の立役者『小松帯刀』について調べてみた
  2. もうひとつの戊辰戦争の悲劇「二本松少年隊」※最年少12才で戦争参…
  3. 新選組の天才剣士・沖田総司【性格は明るい人物だった】
  4. 武士だけに許された「切腹」の歴史と作法 【11人の凄絶な切腹にフ…
  5. 「喧嘩上等!」数々の事件を起こした幕末の剣豪・上田馬之助
  6. 東京がなぜ首都になったのか?その理由 【遷都ではなく奠都だった】…
  7. 近藤勇が「大久保大和」と名乗った意味は? 「尊皇攘夷と幕府への忠…
  8. 【月百姿】 月岡芳年が描いた月の光 「最後の浮世絵師 血みどろ芳…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

ポーランド王国 「隣国に恵まれなかった中欧の大国」

ポーランド王国の成り立ちポーランド王国は1025年にピャスト朝によって誕生した。…

本多忠勝と本多正信の関係性とは? 「最強武将と最強謀臣」【どうする家康】

本多忠勝と本多正信徳川家康の家臣団の中でも、本多忠勝と本多正信は一際目立つ武将である。…

性依存症とは何か?その偏見と実態

近年、ニュース等で話題になっている依存症。薬物やギャンブル、アルコールなど、さまざまな依存症…

フィラデルフィア・イーグルスの2017年 ①「激動のレギュラーシーズン」

58年ぶりの歓喜2018年2月4日、ミネソタ州ミネアポリスのUSバンク・スタジアムで行わ…

「統帥権干犯問題」について調べてみた

統帥権の解釈「統帥権干犯問題」(とうすいけんかんぱんもんだい)は、1930年(昭和5年)…

アーカイブ

PAGE TOP