幕末明治

大久保利通について調べてみた【西郷どんの盟友】

維新政府の権限確立に欠かせなかった西郷隆盛

そして、西郷はともに薩摩藩出身の大久保利通と綿密に連帯しながら明治維新を推し進めた。しかし、近代日本の方向性を模索する中で次第に意見を異にし、別の道を歩むことになる。

西郷の力

大久保利通
【※維新後の大久保利通】

戊辰戦争後に徳川幕府は滅び、明治新政府の基礎は確立されたが、藩体制は存続していた。

日本を近代的な中央集権国家とするには、藩士と武士団を解体させる廃藩置県を行わなければならない。しかし、すぐに廃藩置県を強行すれば、かなりの抵抗があることが予想された。

中央集権化にもっとも積極的だった木戸孝允は大久保利通と画策して藩主が土地と人民を朝廷に奉還し、改めてこれらを朝廷から藩主に授ける版籍奉還を明治2年(1869年)6月17日に行うことに成功する。これにより全国に274あった藩の藩主の藩主権は巧妙に剥奪され、旧藩主は明治政府の指揮下に入ることになった。旧藩主は知藩事に任命されていたが、政府の地方行政官に過ぎなくなったのである。

ただ、藩は依然として軍事力を持っていた。また、山口藩では政府の政策に不満を抱く兵士の反乱が起き、東北でも反政府陰謀事件が起きている。政府が恐れたのは、反政府運動が農民運動と結びつくことであった。そこで大久保利通は、鹿児島に帰っていた西郷隆盛に協力を求め、西郷は鹿児島、山口、高知の三藩から1万人の兵士たちを状況させることに成功する。これらは御親兵となって政府の力は格段に上がった。

複雑な胸中

さて、いよいよ政府は中央集権国家体制の本丸となる廃藩置県に着手する。まず、参議や卿(長官)の全員を一旦解任し、西郷と木戸だけを任命して権限を集中させた上で廃藩置県に踏み切ることにしたのである。

しかし、諸藩が抵抗した場合、どうするかの話し合いがなかなか決まらない。そこに西郷が突然発言する。

この上、各藩がぐずぐず言うのであれば、おいどんが御親兵を率いて打ち潰しもそう

かくして明治4年(1871年)7月14日、明治天皇は知藩事を招集して、藩を廃止し、県を置くと宣言した。ただ、西郷の胸中は複雑だったようだ。鹿児島の友人に出した手紙には「島津家から受けた深い恩は忍びないが、ことここに及んでは仕方がない」と綴られている。

大久保の信頼


【※岩倉使節団における著名人。一番左が木戸孝之、一番右が大久保利通】

廃藩置県を成功させた4ヵ月後の11月12日、政府首脳が大挙して海外へ出かける使節団が、欧米に向けて出発した。特命全権大使を右大臣の岩倉具視が務め、副史として、木戸、伊藤博文、そして、大久保らなどで組織した総勢48名の岩倉使節団である。

しかし、時期は太政官政府が政権を掌握したばかりの重要なとき。大久保は自分の留守中に木戸らの長州勢の発言力が伸びるのを防ぎたかった。もともとこの使節団派遣そのものに反対するものも多く、安心して日本を離れることができなかったのだ。そこで、西郷に政府の留守を任せることにした。西郷なら大久保の勢力を支えてくれると思ったからで、西郷もまた大久保の立場を知りつつ、これを快諾した。

大久保利通 暗殺


【※大久保暗殺の現場となった紀尾井坂の変の石碑】

やがて、明治10年(1877年)の西南戦争で、敵味方に分かれて戦うざるを得ない状況となった大久保と西郷。

その最中に木戸が病死、西郷が自決すると、維新三傑と呼ばれた男は、大久保利通だけになっていた。戦後、大久保は岩倉具視と結託してさらなる独裁体制を強めていった。そのことで不平士族たちの怒りや不満は募るばかりであり、ついには東京・赤坂仮皇居へ向かう馬車上の大久保は、紀尾井坂において襲撃され惨殺されてしまう。首謀者は石川県士族・島田一郎をはじめとした6名。西南戦争などの士族反乱において呼応しようとしたが果たせず、高官暗殺という手段に打って出たのだ。

大久保の目標は中央集権による強い日本を作ることだった。そのためには脆弱な財政基盤しか持たない政府にとって、旧武士階級への処置は避けられないものだったともいえる。朝鮮への国交樹立と出兵によって国内にくすぶる士族の不満を逸らすための「征韓論」を巡り、大久保と西郷は袂を分かつことになったが、大久保は最後まで日本のことを思い、志半ばで散ったのだ。

西郷への思い


【※西南戦争における城山の戦い】

西南戦争において西郷が戦死したことを知らされると、大久保は家のなかをぐるぐると歩きまわり、何度も鴨居に頭をぶつけていたという。盟友を討たざるを得なかった彼の心中はどのようなものだったのだろうか。

大久保もまた国のために生きた人である。私財を投じて国の借金を肩代わりし、暗殺当日の朝は私邸にて福島県令の訪問を受けて、国家建設の三十年計画について語っていた矢先だった。西郷隆盛と大久保利通、この2人はそれぞれ別の道を歩んだ。今となっては西南戦争の真意もわからない。しかし、それによって薩摩は自滅し、日本の中央集権化が加速してゆくことになった。

最後に

2017年9月、鹿児島市の南洲公園に西南戦争の慰霊塔が建てられた。式典には西郷や大久保らの子孫を含めて約200人が出席し、まさに140年のときを経てようやくの和解となったのだ。そして、明治維新150年という節目の年である2018年。幕末の動乱を生きた人々にもう一度思いを馳せるのもいいだろう。

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