幕末明治

山縣有朋について調べてみた【今までの評価は間違い?!】

明治2年(1869年)、山縣有朋(やまがたありとも)は、ヨーロッパの地にいた。
明治維新を成功させ、大日本帝国の富国強兵に向けヨーロッパの先進的な軍事制度を視察するためである。翌年には渡米も果たした。

その目に映ったのは、日本とはあまりにかけ離れた軍事力だったことだろう。同時期の世界といえば、後に第一次世界大戦の引き金ともなるオーストリア=ハンガリー帝国が成立したり、フランスではナポレオン3世によるフランス第二帝政が崩壊前夜を迎えていた。スエズ運河が開通し、南北戦争終結後のアメリカでは大陸横断鉄道が開通している。

激動のなかでも世界の技術、軍事力は日本のはるか先を走っていたのだ。

そうした視察の成果が、山縣の人生に大きく影響を与えたのは間違いない。

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陸軍トップへの布石

山縣有朋
※山縣有朋

明治3年(1870年)、帰国した山縣は西郷隆盛とともに軍制改革を行う。日本初の徴兵制である。
フランスでは1803年から行われた『ナポレオン戦争』において、すでに徴兵制が施行されていた。それまでのヨーロッパでは、傭兵が主力だったがフランス革命により国防意識に燃えた国民が自主的に国防軍を立ち上げた影響である。

陸軍卿の役職を経て、明治16年(1883年)に内務卿に就任してからは地方自治の整備を行い、政治家としての手腕を発揮した。内務卿とは、明治18年に内閣制が成立し、第一次伊藤内閣が発足するまでは、首相と同格のポストであったと考えていい。

この時点で山縣は実質的に日本の政界のトップに立っていたのだ。地方都道府県、市町村といった行政区分を制定し、戸籍を整備するなど日本国近代化への第一歩とされているが、一方で徴兵制を効率化するための布石であったとの見方もある。

山縣系人脈の成立


※陸軍大輔時代の山縣(明治5年)

山縣と切っても切れないのが「」のイメージである。

その権力により、日本陸軍を近代化して富国強兵策を強力に推し進めたのが山縣であった。その結果、政党政治に対する軍閥の発言力が強化され、昭和における軍部の暴走を招いたといわれるためだ。

確かに人事を操れる山縣によって、その才能を見込まれた軍人や官僚は要職に就けていた。これにより元長州藩出身の多くの人材が「山縣系」なる人脈を作りもしている。だが、この時点で結論を出すことは出来ない。あくまで陸軍の地盤を強固なものにしていただけで、軍部の暴走などは後の話だからだ。

それよりも、陸軍において強い影響力を持ちながら、軍人としてはその才能を疑うべき点が注目に値する。

軍人としての資質


※大山巌(日露戦争後)

山縣が歴史上、最初に表舞台に立つようになるのは、高杉晋作が失脚した後の奇兵隊を指揮したことに始まった。長州征伐戊辰戦争と戦い抜き、維新に貢献したひとりとしてその名を刻む。

明治10年(1877年)の西南戦争では官軍の総指揮を執り、薩摩軍の鎮圧に成功しているが、このときは武力や錬度において官軍のほうが明らかに勝っていた。

50歳を過ぎて第一軍司令官・参謀総長として日清戦争で指揮を執り、日本軍の勝利に貢献しているが、同時期のライバルである陸軍大将・大山巌(おおやまいわお)と比較すると見劣りしてしまう。大山が前線の指揮官だったのに対し、山縣は参謀という後方の立場であり、山縣の指揮能力がはっきりと分かるような記録はない。

山縣は「敵国(中国人)は極めて残忍である。捕虜となり拷問を受けるくらいならむしろ潔く死を選ぶように」という言葉を兵士に発している。しかし、戦争とは常に残忍なものだ。捕虜に対する人道的な扱いを定めた「ハーグ陸戦条約」が採択されたのは1899年のことであり、日清戦争は1895年に日本の勝利で終結している。そのことを考えれば、日清戦争における捕虜の処遇がどのようなものかは推して知るべしであり、その観点から指揮官としては「大規模戦争」というものの認識が甘かったのではないかとも推測できる。

現実的なビジョン

※当時の風刺画(1887年)。日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている。

一方で、軍政家としての能力は高かった。

官僚制度の確立、文官試験制度を創設し、後進を育成することに腐心した。それにより幅広い人脈を有することになり、「山縣系」と称される派閥を形成していたのである。

さらに、海外出兵に対しては常に慎重な立場をとり、対欧米強調を外交の基本とするなど、当時の軍政界において現実的なビジョンを持っていた。日清戦争においても西欧列強がアジアへ侵略の手を伸ばしていたことに対する危機感の現れであり、外交問題として処理したかった山縣の本意とは異なった結果である。

山縣は軍拡路線を進めたが、それは西洋列強の侵略に備えてのことであり、少なくとも山縣においては侵略戦争への備えという意識はなかった。しかし、自らの信念を貫くためには強力な人脈が必要であり、結果的に「権力主義者」のレッテルを貼られることとなったのである。

新たな評価


※政治家の頃の山縣

近年になり、山縣の評価に変化が現れている。

軍国主義の巨頭というイメージは、国防意識の高さと出兵に慎重であったことの証とされ、保守主義者というイメージも、欧米観察者として優れていたためといわれるようになった。アジアでの外交においても、より影響力のある欧米との協調路線を模索した。第一次世界大戦後にはアメリカの台頭をいち早く予測するなど分析能力にも長けている。

具体的には、日本の経済成長に伴い、同じく第一次世界大戦を契機に急成長したアメリカが、日本に対して危機感を覚えていると見抜いていたのである。

明治初頭に盟友であった伊藤博文とは、後期になるとなると一転して、政治に対する考え方の違いにより激しく対立しているが、これも互いに日本の将来を考えてのことである。昭和の軍部暴走の原因になったというのは言い掛りも甚だしく、時代を超えたバタフライ・エフェクトのようなものだ。

最後に

指揮官としての素養は別として、政治的な側面から個々の出来事を見直してみると、確かに山縣のイメージは覆る。皇室への干渉である宮中某重大事件を起すなど、人生の末期においてそのキャリアに大きな傷をつけてしまったが、これも国のためを思っての勇み足と捉えれば彼の行動にも納得が出来よう。

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