幕末明治

日本陸軍の創始者・大村益次郎

大村益次郎 の生い立ち

大村益次郎

※大村益次郎, 1825 – 1869

大村益次郎(おおむらますじろう)は「日本陸軍の創始者」とも言われ、靖国神社に銅像が建つ唯一の人物です。

元々武士ではなかった大村がなぜそうした立場足り得たのか、その生涯を少し調べてみました。

大村は 文政7年(1824年)に周防(現山口県)の吉敷郡鋳銭寺の医者・村田孝益の長男として生まれました。

天保13年(1842年)18歳のときに防府でシーボルトの弟子だった梅田幽斎に師事して医学や蘭学を学び、翌年には豊後の日田で広瀬淡窓の私塾咸宜園において漢籍、算術、習字などを学びました。

その後、弘化3年(1846年)には大坂の緒方洪庵が主催していた適塾に入り、塾頭を務めるまでに学問における才を発揮しています。

しかし嘉永3年(1850年)、26歳の時に父・孝益の要望に従って帰郷し開業医となりました。

平和な時代であれば、多少の学問を治めたとはいえ、村医者として普通の生涯を送ることになったかもしれませんが、この幕末は大村の才を必要としました。

伊予宇和島藩への出仕

嘉永6年(1853年)、大村は故郷の周防と瀬田内海を隔てた伊予宇和島藩に出仕することになりました。
この経緯には諸説あるようですが、大村の深い蘭学についての知識を評価されてことに間違いないようです。

大村はその起用に応え、西洋式の兵学や蘭学の講義を行う同時に、宇和島城の北側に樺島砲台を築きました。
さらに藩の命を受けて長崎へ赴き、西洋式の軍艦についての研究を行い、その建造にも手を広げるなど期待以上の働きをみせました。

折しも当時の伊予宇和島藩主は、幕末四賢候の一人とも謳われた伊達宗城(だてむねなり)であり、大村のこの才能ははすぐにその目に留まることになりました。

※伊達宗城

幕府から長州藩へ

安政3年(1856年)4月、大村は宗城の参勤交代に伴って江戸へと上り、麹町に私塾を開設して蘭学と兵学・医学を教授しました。

同月には宇和島藩に所属したまま、幕府の蕃書調所教授方手伝を務めることとなり、外交文書や洋書の翻訳、兵学の講義、オランダ語の講義など、その知識を余すことなく伝えました。
更に翌安政4年(1857年)11月には、築地にあった幕府の講武所教授を任じられ、最新の兵学書の翻訳とその内容についての講義を行いました。

因みにこの江戸滞在中に、大村は長州藩士の桂小五郎(後の木戸孝允)と知り合い、万延元年(1860年)にその才を見込まれて江戸在住のまま同藩士に取り立てられました。

長州軍の近代化に貢献

大村は、文久3年(1863年)10月に長州の萩へと戻り、本格的に長州藩の軍備に携わります。

長州では元治元年(1864年)の第一次長州征伐の結果、一旦は幕府への恭順を示す保守派が政権を握っていましたが、翌慶応元年(1865年)に高杉晋作が挙兵し、桂小五郎らとともに藩政の主導権を握ることに成功します。大村はそうした中で、高杉が創設した奇兵隊の軍制改革の指導を担当し、予想される幕府の第二次征伐に対する軍事力の近代化を行いました。

そうして慶応2年(1866年)、第二次長州征伐を迎えましたが、大村は石州口方面において実戦の陣頭指揮を採り、新型の銃器と巧妙な戦術を展開して、幕府軍の撃退に成功します。

この戦いで幕府の力の衰えは明らかとなり、以後薩長同盟の締結を経て、大きく討幕への舵を切ることになりました。

戊辰戦争の大村

将軍徳川慶喜による大政奉還の後、明治元年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いを皮切りにして新政府軍と旧幕府軍との戊辰戦争が始まりました。

同年4月には新政府軍は江戸へと迫りますが、西郷隆盛と勝海舟の歴史的な会談の結果、江戸城は無血開城されました。

しかしこれに異を唱える旧幕臣約3000名が、彰義隊を称して上野寛永寺に立て籠る一触即発の事態が発生しました。加えて新政府軍は戦費の調達が厳しくなっており、これ以上の戦いの継続が危ぶまれる状況に立たされていました。

ここで大村は一計を案じ、江戸城に残された物品を換金して凡そ50万両にも上る金額を調達して、新政府軍の継戦能力を維持する策を実行してみせました。

更に彰義隊に対しても退路を確保した上で、新式の大砲による長距離からの砲撃を行い、これを作戦通りに1日で撤退に追い込むことで、江戸での戦いを局地戦に抑えて終結させることにも成功しました。

大村益次郎の最期

※靖国神社参道の中央にある大村益次郎像

戊辰戦争後の新政府に出仕した大村は、軍務官副知事に就任して新政府軍の軍制改革に当たりました。

その任にて京へ赴いた際、8人の刺客に襲撃を受け即死は免れたもののその傷が元で享年46歳で世を去りました。

維新が成ってこれからというときの早すぎる死ではありましたが、元々一介の村医者としての人生を送ったかもしれない大が歴史の表舞台に立ったが故の悲劇ともいえる最期でした。

刺客らが所持していた「斬奸状」から、その襲撃の理由は急進的な兵の制度変革に反感を募らせたものとされています。

武士ではなかった上で西洋の兵学をほぼ独学で習得し、実戦の場でも機能させた稀代の碩学が大村でした。

 

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